山之口町の弥五郎どんが、神武大祭の御神幸行列に参列したという。
10月28日の宮崎神宮大祭のことである。
初めてのことらしく、数日前から県内のニュースで報道されたいたのだが、どうにも納得が行かない気がした。
神武さんと、弥五郎どんは、本来敵同士なのではないのか。

思い違いだといけないので、調べてみた。
宮崎神宮に祀られる「神武さん」とは、言うまでもなく、「神武天皇」すなわち初代天皇である。
日向の国より発って、東方を治めたという。
片や弥五郎どんとは何か。
ネット上を調べてみた。
『珍寺大道場』
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/yagorou.html
養老4(720)年に起った隼人の乱の時の隼人族の首長であった人物だ。
この頃、南九州は日向といわれた隼人族の地であったが奈良の大和朝廷は日向を薩摩と大隅に分割し支配の強化を計ったのである。
その分割統治、支配強化に対して反乱した隼人族は大和朝廷の圧倒的な兵力の前に力尽き、大勢の犠牲者を出したという。
大和朝廷は隼人族の怨霊を恐れ石清水八幡で放生会を行なわせその際に隼人族の首長の弥五郎どんの大きな人形をつくったといわれているそうだ。
その後全国の八幡神社でこの弥五郎どん人形は広まったそうな。
そんな弥五郎どんは現在、宮崎県山之口町の的野正八幡宮、鹿児島県大隅町の岩川八幡神社、
宮崎県日南市の田之上八幡神社の三カ所で見る事が出来る。
それぞれの土地の八幡神社の祭にシンボルとして巨大な弥五郎どんの人形が登場するというのだ。
その異形の様と巨大さは見るものをかなりビビらせる位の迫力満点の薩摩隼人っぷりである。
『かごしま遊歩』
http://www005.upp.so-net.ne.jp/a-kgs/yagoro.htm
その1 大隅隼人の酋長説
最後まで大和朝廷に服従しなかった大隅隼人酋長の大人弥五郎のことである。
その2 熊襲タケル説
日本武尊の熊襲征討を迎え撃った熊襲タケルのことである。
その3 武内宿弥説
武内宿弥という人は,天皇六代に仕えた長寿者で,現在,弥五郎どんを祭ってある大隅町岩川八幡神社の祭神の一人で海幸彦・山幸彦
兄弟の親戚筋に当たる人らしいが,景行天皇から仁徳天皇まで六代というと300歳になるなど実像ははっきりしない。
地元では,この説が最も一般的に信じられているらしい。
その4 鎮西八郎為朝に討たれた熊襲の末裔説
明治の初めに発行された「鹿児島神社誌」に鎮西八郎為朝が熊襲の大人弥五郎を追討にきて,その戦いぶりが記載されているという。
その5 720年の隼人反乱の首領説
中央政府の圧迫に隼人族はたびたび反乱を起こしているが,特に700年,720年,740年の反乱は大規模だった。このうち,
720年の反乱は, 中央から派遣された大隅初代国司の締め付けに耐えかねて,これを殺害したことに端を発し,
政府軍は圧倒的な兵力を持って臨んだが,頑強な隼人は屈せず,約1年間の激戦の後, ようやく平定された。
この戦乱で田畑は荒廃し悲惨な状況にあったので,3年間ほど課役免除の措置がとられたという。今で言う税金の“納付猶予”というやつか。
で,このときの隼人の首領が大人弥五郎ではないかという。
なるほど、諸説あるようだ。
時代的に考えて、神武天皇と弥五郎どんが直接戦ったわけではない。
そもそも、両者とも、伝説神話の域を出ないから、そんなことを考えるのは無意味である。
しかし、南九州に生きる人々の根底には、反大和朝廷の精神が沸々と受け継がれて来たのではないだろうか。
隼人族の怨霊を鎮めるために大和朝廷が始めさせた祭りと言うことだが、祭司たる隼人一族の心根は、
我らが英雄弥五郎どんを讃える祭りであったに違いない。
霧島連山のマグマのように、心の底には、天皇家のルーツであるという自負と、
踏みつけられた隼人族の鬱屈した精神が堪っているのだろう。
生活者一人一人の心にそんなものがあるわけではないだろうし、大日本帝国憲法下で完全に天皇の統治下に組織され、
そういった精神はすでに消えてしまったのかもしれない。
しかし、祭礼という様式や、道具、衣装の中に、そういった反骨精神のカケラを見ずにはいられない。

橘通りを練り歩く弥五郎どんを見た。
参加している保存会の面々や子どもたちは、純粋に、屈託もなく、
おそらくは晴れの場を得たことを誇らしくあるいは嬉しく思っていることだろう。
しかし、ニッポンの象徴・天皇家の力に、反権力の英雄・弥五郎どんが屈服してしまったように思えて、
ちょっと残念であった。
他に、弥五郎どんに詳しいサイト
『宮崎観光写真』
http://www.pmiyazaki.com/photo/yagoro.htm
最近のコメント