みやざき演劇祭 「パラサイト・パラダイス」
9月19日昼
宮崎県立芸術劇場 イベントホール
作・演出/古城十忍
3LDKに住む高見家は4人家族。
一見どこにでもありそうな普通の一家だが、最近少し様子がおかしい。
お父さんはプラモデルにひたすら熱中し、お母さんは出会い系サイトにハマり、
娘は年下でフリーターの彼氏を部屋に住まわせ、息子は大学に行かず引きこもる。
おまけに健康オタクの隣のおじさんがしょっちゅう入り浸っている。
そんなある日、お母さんのお母さんがアキレス腱を切ったことを理由に
居候を求めて訪ねてくる。お父さんのお父さんまでもが家を売り払い、
同居を宣言する始末。3LDKに7.5人、果たしてどうなる高見家。
持ちこたえられるのか?
「孤独」と「依存」をめぐって「現代家族を哲学する」物語。
(予告サイトより抜粋)
小林市出身で東京で活躍する古城十忍の作・演出。
戯曲は、古城氏が練り上げたものだから、おもしろくないはずがない。
2003年初演で、「パラサイト・シングル」という言葉がはやった頃である。
しかし、この舞台の本当のテーマは、「パラサイトする家族」というより、「家族らしさ」「○○らしさ」の揺らぎ・または崩壊、そして新たな共生への模索、というべきだろう。
「父親らしさ」「母親らしさ」「妻らしさ」「大学生らしさ」・・・。
社会のあり方が変わり、個人の価値観が変わる中、家族のあり方も変わっていく。今までの「家族らしさ」が崩れていくのはもはや必然。しかし、では人間は一人で生きていけるのかというと、そうではない。では、どのような共生ができるのか。
旧来の家族共生が崩れ、パラサイト(寄生)から、新たな共生を模索する家族の姿へ・・・。
一見ありえないようなドタバタな家族だが、実は今まさにこのような模索が日本の隅々で起こっているのであろう。
劇の中では、父親は旧来の父権的なオヤジらしさを示せそうとする時と、身に合わないのか、示そうとしない時がある。迷い。
母親も、家での母・妻の役割を果たしつつも、外では一人の女であろうとする。
同居を求めてくるわがままな老人たちも同様である。
孤独と死への恐怖。誰と終末を迎えるのか。
保守的だと思われた老人たちの方が、孤独に直面してるだけに、新しい共生のあり方をいち早く見いだしたと言える。
大勢がパラサイトする極限状態。その終末は突然にやってくる。
娘の海外転勤、老人たちの自立、そしてひきこもりの息子の独立宣言で、突然に幕を閉じる。
あっけない結末に、結局自力では何も解決しなかったという物足りなさが残る。
しかし、現実はそんなものかもしれない。
7.5人が、突然2人きりになる。
家族の役割を演じる裏に若き夢を抑えてきていたはずの夫婦だが、急に何も抑える必要がなくなる。が、もはや自分たちが若くないことを思い知らされるのだろう。そして、孤独さを埋めるべく、二人は結局別れることなく年を重ねていくのだろう。
よく書けている戯曲なのだが、一方で疑問に感じる部分もある。
不思議なのは、経済観念が希薄なことだ。
もし、息子の「働く意味がわからない」という問いかけは、「働き甲斐」や「労働の意味」を問いかけているものの、なぜか自分がなぜ食えているのかという疑問がない。答える父親側にも、「貨幣を得るため」「その日の生活をするため」という返事がない。これは不思議である。「誰のおかげでメシを食えていると思ってるんだ!」といおう、お定まりの台詞を吐けるような父親ではないのかもしれないが、しかしそこに触れない方がかえって不自然に感じる。
いや、この戯曲が書かれた6年前には、そのあたりはあまり切実ではなかったのか。もしかしたら職を失うかもしれないという恐怖は、この数年で急速に広がったものかもしれない。
だとするなら、2009年のパラサイト・パラダイスを作るなら、父親が失業するところから始めるべきかもしれない。
役者評。
普段見慣れている宮崎の役者が見事に鍛え上げられている。
体や演技にクセのある人たちが、それが抑えられて無駄の少ない演技になっている。
古城が東京から呼んだ元劇団一跡二跳の奥村洋二が、父親役で芝居を引っ張る。
それに対して妻役の神水流じん子(劇団25馬力)がしっかりと渡り合っている。
長女のあべゆう(劇団こふく劇場)は、キャリアウーマンらしさを感じない。
長男の中武悟(劇団一演)は、まっすぐさが良い。純粋さがほしい。
長女の彼氏の谷口ろくぞう(劇団阿坊)の明るさ。
父の父を演じる甲斐健治(劇団220)の朴訥さ。
母の母の原田千賀子の皮肉さ。
隣のおじさんの黒田吉郎(のべおか笑銀座)は欽ちゃんばりの熱演。奇妙だが元から浮いたポジションの役だからこれでいい。
回想シーンの役の中では長女の同僚・藤山を演じる中島佳江子(劇団ゼロQ)が異色。キャリアを生きてきた手強さがおもしろい。
今回の企画の成果は、舞台に現れている部分以上に、その制作過程にあったのではないかと思う。
1回だけだが稽古を見に行ったが、非常に密度の高い稽古であった。特に、最初のウォーミングアップは、音楽に乗せて小一時間体を動かし続ける。わずか1ヶ月の稽古で古城流の演出を役者陣が体に取り込むことができたのは、このアップをみっちりと仕込んだからだろう。このアップをはじめ、演出の技術や考え方など、多くのものを残したに違いない。それがなによりの果実であり、それを生かせるかどうかは宮崎の演劇人の努力にかかっている。
また、稽古場に使った高岡町の去川小学校の廃校跡も、演劇づくりには素晴らしい環境であった。稽古場さがしに実行委員が頭を悩ましていたのを知っていたが、よくぞ素晴らしい場を見つけたものである。去川地区の人たちの寛容さにも感謝である。便利な場所ではないが、芸術を創造する場として広くて時間を気にせずに使えて集中できる。これもまた、今後につなげていきたいものである。
終演後のアフタートークで、観客に対して挙手アンケートが取られた。登場人物の誰に共感するか。今回は父親と母親に対する共感が多かったのだが、東京では長男への共感もほぼ同数あるのだという。これはどういうことだろう。おそらくは、宮崎の観客の年齢が高いのだろう。宮崎では演劇が若者に文化として認知されていないということだろう。あたりまえのようなことをあらためて認識した。
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