観劇日記

劇団遊顔 「ガガガ」

宮崎県立芸術劇場
平成21年度演劇ワークショップ「演劇人養成講座 劇団をつくろう!」

劇団遊顔
「ガガガ」

2009年12月25日(金)
メディキット県民文化センター 演劇ホール舞台上舞台

演劇人養成講座の2年目の発表公演。
今回は、4年ほど前の三股の戯曲講座の受講生、渡邊眞美の作品を、永山が演出する。
まず、この渡邉の脚本が良い。
そして、それを潤色し、演劇初心者をして見られる作品に仕上げた永山の手腕も見事。
30分の舞台であるが、演劇の充実感は長さに単純に比例するものではないなと思う。

役者(受講生)は大半が演劇初心者である。
技術的に拙いのは当然だとして、しかし伝わる演技と伝わらない演技があることが、見て取れる。それは、滑舌がどうとか訛がどうとかいう、技術の問題ではない。
相手の言葉を聞き、しぐさを感じ、そして感じたことをしっかりと受け止めて返せているか。
それが出来ている人と出来ていない人の違いは一目瞭然である。
加えて、自分の身体をコントロールできているかどうか、だが、それは次の段階であろう。

終演後のアフタートークは、受講生がみな充実した顔で舞台に並んでいた。今年もまた、11人の演劇人が生まれたわけである。
地道だが、確かな成果である。

受講生
一政月海 今井恵美子 江口健太 志岐美佳 澁谷遊歩 束野静代
橋口理美 濱砂唯 本部悦孝 牧ノ瀬詠子 松原史歩

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青年団 「カガクするココロ」

青年団 「カガクするココロ」

12月2日 宮崎県立芸術劇場イベントホール

「カガクするココロ」と「北限の猿」の二本立ての青年団の公演。残念ながら今回は「カガクするココロ」だけの観劇。
作品として独立していることはわかっているのだが、しかし関連性のある作品であることを承知で見ているので、なんだか一幕目だけでお預けにされたようでちょっと悔しさが残る。

久しぶりに青年団の公演を見たのだが、最近はあまり「静か」ではないのだなと感じてしまう。十数年前に宮崎県立美術館で見た東京ノートの静謐な空気感から受けたショックから思うと、ずいぶん「普通の演劇」に感じてしまうのである。
しかし、これは平田演出の変化だけではない。観客である我々の側が、それにすっかり慣れたのだろう。
後ろ向きでしゃべるとか、同時多発でしゃべるとか、ぼそぼそしゃべるとか、そういう演技のあり方・・・つまり平田の提唱した「現代口語演劇」が、すっかり「普通のこと」、演劇のスタンダードとなったになったと言うことなのだろう。
以前は、リアルなようでしかし微妙な違和感があって、もしかしたら平田流の一つの「様式」になってしまうのではないか、と思っていたのだが。すっかり演劇の「普通」になった。

wonderlandのインタビューで、平田は

『「おれが近代演劇で、おれ以降が現代演劇だ」って。その通りになったじゃないですか。』

と語っているのだが、それがよくわかる。
http://www.wonderlands.jp/interview/010/05.html

さて、肝心の中身。
最先端の化学研究の横で交わされる若者たちのどうでもいいような日常会話、なのだが、あまりにも他愛のない会話が続き、ちょっと拍子抜けなのだ。
妊娠した高校生と、ウニの発生について語る研究者との間の緊張感は、胎内の生命と、シャーレの中の生命と、一人の男を巡る感情とが知らずにスレ違う感じが重層的でよかった。

やはり北限の猿とセットで見るべきだったのかもしれない。

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みやざき◎まあるい劇場 「青空」

劇団こふく劇場プロデュース公演 #16
みやざき◎まあるい劇場公演『青空』

2009年10月23日 宮崎県立芸術劇場イベントホール

  作・演出/永山智行

障碍者が大勢参加する劇団、まあるい劇場の3回目の公演。
今回は1回目と同じくこふく劇場プロデュース、永山智行の作演出である。

障碍者が舞台に立つことは、勇気のいることだろうと思う。
ただ街をゆくだけでも、好奇の目で見られたり、迷惑に思われたり、過剰に気の毒がられたり。
まあ、こういうふうに考えてしまうことが一種の偏見なのかもしれないし、なにか難しく考えすぎているのかもしれない。

 

今回一番感動したのは、実は本編の筋とはやや離れたダンスの部分である。
二人のダンサー(あべゆう・大村なつみ)が、横臥した状態から、やがて四つん這いとなり、立ち上がり、声を上げる。生命の進化を表す。
この過程を、本編のストーリーの合間に3回分けて演じる。
最初は身体を動かす技巧的にはあべゆうが勝っていると感じた。
しかし、最後、立ち上がり、声を上げるシーンとなって、大村の絞り出す声に心の底からの声を感じた。
大村は障がいを持っている。足も手も曲がっている。発語もままならない。
それだけに立ち上がることの必死さ、声を出すことの深さが、真実となるのである。
それが表現となり、感動を与える。それが演劇であり、それを見抜いた演出家(永山)の視点の確かさである。

 

ストーリーは、ある意味永山の常套的作劇法で、心に何かわだかまりを持った人々が引き寄せられように集まってくる場所での出会う。今回は廃墟となった田舎のプラネタリウムである。

リアルに考えると、なぜ彼らはここに集まっているのかとか、崩壊して彼らは無事だったのかとか、そんなことも考えないでもないのだが、それよりは一人一人の心に真実があれば、それでいい。

学生時代に漫才コンビをしていた兄弟。都会に出た兄(濱砂崇浩)は仕事にとりつかれている。弟(和田祥吾)はいつでも帰ってこいと言う。和田のとぼけた感じと生命を思う叫び。
鬼束雅人とかみもと千春の別れたカップルのしみじみとした屈折。
餅原奈々の傘子が明るさと憂いを見せてよい。よい女優となった。
久しぶりの再開を果たす夫婦(山室曹伍・松下みどり)のエピソードに心が温まる。
妖精のような3人(森、大浦、笠)が奇妙さ、管理人(平野)の皮肉っぽさ。
詩子(吉野)のじっと聞こうとする居住まい。

 

障がいの有無はストーリーとも役ともあまり関係ない。
それをことさらに特徴とはしないし、しかし個性として表現できればという、スタンスであろう。
障碍者劇団の中には障碍を表現の武器とするやり方もあるだろうが、そういうスタンスは取っていない。
しかし、ともすると障碍がないもののようになると、ちょっとそれが不自然にも感じてしまう。

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ぐるーぷ連「眠る女」

ぐるーぷ連
眠る女(ひと)

2009年10月18日
ぐるーぷ連 劇工房

ぐるーぷ連の演劇を書物にたとえると、哲学書だろうか。
小説のように感情に訴える仕掛けはしないし、実用書のような目的を持った説明ではむろんない。
哲学書は真理を探究しているのだが、読み手に読み解く能力が求められるし、心の状態で受け止め方が変わってくる。

中島みゆきの最近の歌、「ボディートーク」の中に、
「言葉なんて、迫力がない。言葉はなんて弱いんだろう」
という歌詞があるのだが、今日のぐるーぷ連の舞台を見ながら、この歌詞を思い出していた。
(中島みゆきは言葉にこだわってきた人だから、反意的に使ったのではあろうけれど。)
どうも、今回の連の舞台からは言葉が響いてこないのだ。

舞台自体はいつもとそう変わるものではないし、こちらもそれを承知で見に行っているのだから、もしかしたら響かないのはこちらの心が受け止める状態にないからかもしれない。

今回は「人は大きいの? 小さいの?」という問いかけが繰り返される。
しかし、そういう設問自体がナンセンスに思える。
大きい小さいとという概念は相対的なものである。プランクトンから見ればヒトは大きいだろうし、宇宙から見れば小さいだろう。
パンフレットの中で「いる」ではなく「ある」、つまり意志とは関係なく“存在すること”について問いかけたいと書いてあるのだが、大小という比較条件で見てみるという所ですでに意志が働いているのではないか。

たまたま先日読んだ舞台批評(せりふの時代2009秋号 岩井秀人評)に、ただ40分間人が立っているだけとか、次第に人数が増えていくとか、そういう前衛的な舞台があると言うことを読んだ。(CASTAYA project『Are You Experienced?』)

連が「ある」ことを目指すのであれば、一度言葉を捨てたらどうだろうか。

しかしながら、夏目漱石の「夢十夜」を、前本、児玉の二人で読むところはおもしろかった。物語があるとやはりわかりやすい。
また、井上も夢十夜を語り出すのだが、これが前本児玉とは別格にさらにおもしろい。ところが、井上が語るのは冒頭部分だけで、本題は夢の感覚についてであり、やがて話は(おそらく太田省吾の)演劇論に入っていく。演劇はヒトを実像以上に大きく描いているのではないか、という問いかけ。しかし、それまで人間一般の広がりを持っていたのに、急に演劇論になってしまって論点が小さくなってしまう。

言葉を弄すれば労するほど、結局何が見せたいのかわからなくなってきてしまうのである。

「10の8乗目メートルから見ると地球はビー玉ぐらい。10の9乗メートルではゴマ粒ぐらい。」
最後にいつもの通り舞台奥の扉が開いて、夜風が吹き込んでくる。その夜風で今日が闇夜で星が降るようだったことを思い出す。
空虚だった言葉が、急に活き活きと感じられるようになる。
終演後、外に出て再び夜空を見上げる。
天の川が見える。流れ星が流れる・・・。

夜空を見る心を与えた。それがこの舞台の成果なのかもしれない。

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大宮崎落語祭 ・・・ 宮崎市街を落語客が行き交った!

10月11,12日、宮崎市内で「大宮崎落語祭」が開かれた。
昨年まで東京銀座で開催された「大銀座落語祭」の地方展開第一弾である。
なぜ宮崎が選ばれたのかよくわからないものの、宮崎市民としては大歓迎である。

しかし、事前の告知はなんとも心もとないもので、ウェブサイトもなんだかわかりにくいもので、これで客が集まるのか心配であった。
市街地中心部の4会場で同時開催するという、銀座式を踏襲したおもしろいところではあるが、しかし宮崎でそんなに集客できるのだろうか、と。
しかし、それは杞憂であった。

私は11日14時宮日会館の「正蔵・米團治・花緑の会」に行ったのだが、満席であった。また、他の回、他の会場も売り切れの札が出ていて、かなりの盛況のようである。1つの会が約1時間半で、3回ほど入れ替えるのだが、終演後も居残って次の回を待つ人がいた。そのまま町を歩いて別会場へ回る人たちが少なくないようで、町をパンフレットを持った人が行き交っている。MRTmiccやアートセンターから宮日会館へと向かう人ともすれ違う。
出演の花緑が話の枕の中で「街の人が誰も落語祭をやっているのを知らない」とぼやいていたが、やや噺家の誇張が含まれているとしても、それは間違いではないだろう。確かに一番街には大看板が吊り下げられていたものの、商店街にはあまりポスターを見かけなかった。町外れの劇場でやる音楽祭にはあれだけ町中に旗が立てられるというのに。山形屋の懸垂幕とか、町が落語一色になるような仕掛けが欲しいではないか。

そうは言っても、とにかく客は集まったのである。
来年は別の町へ移るのだろう。次に宮崎に落語祭が来るのは48年後だろうか。
それではあまりにももったいない気がする。町の中のホールをこれだけ一斉に連携させてできるイベントは、落語以外はあまり考えられない。
笑いは人や町を元気にすることができる。
小朝プロデュースの落語祭は当分ないのかもしれないが、これから宮崎の『街』主導で、落語祭を作っていく番である。

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みやざき演劇祭 「パラサイト・パラダイス」

みやざき演劇祭 「パラサイト・パラダイス」
9月19日昼
宮崎県立芸術劇場 イベントホール

作・演出/古城十忍

3LDKに住む高見家は4人家族。
一見どこにでもありそうな普通の一家だが、最近少し様子がおかしい。
お父さんはプラモデルにひたすら熱中し、お母さんは出会い系サイトにハマり、
娘は年下でフリーターの彼氏を部屋に住まわせ、息子は大学に行かず引きこもる。
おまけに健康オタクの隣のおじさんがしょっちゅう入り浸っている。
そんなある日、お母さんのお母さんがアキレス腱を切ったことを理由に
居候を求めて訪ねてくる。お父さんのお父さんまでもが家を売り払い、
同居を宣言する始末。3LDKに7.5人、果たしてどうなる高見家。
持ちこたえられるのか?
「孤独」と「依存」をめぐって「現代家族を哲学する」物語。

(予告サイトより抜粋)

小林市出身で東京で活躍する古城十忍の作・演出。
戯曲は、古城氏が練り上げたものだから、おもしろくないはずがない。

2003年初演で、「パラサイト・シングル」という言葉がはやった頃である。
しかし、この舞台の本当のテーマは、「パラサイトする家族」というより、「家族らしさ」「○○らしさ」の揺らぎ・または崩壊、そして新たな共生への模索、というべきだろう。
「父親らしさ」「母親らしさ」「妻らしさ」「大学生らしさ」・・・。
社会のあり方が変わり、個人の価値観が変わる中、家族のあり方も変わっていく。今までの「家族らしさ」が崩れていくのはもはや必然。しかし、では人間は一人で生きていけるのかというと、そうではない。では、どのような共生ができるのか。
旧来の家族共生が崩れ、パラサイト(寄生)から、新たな共生を模索する家族の姿へ・・・。
一見ありえないようなドタバタな家族だが、実は今まさにこのような模索が日本の隅々で起こっているのであろう。

劇の中では、父親は旧来の父権的なオヤジらしさを示せそうとする時と、身に合わないのか、示そうとしない時がある。迷い。
母親も、家での母・妻の役割を果たしつつも、外では一人の女であろうとする。
同居を求めてくるわがままな老人たちも同様である。
孤独と死への恐怖。誰と終末を迎えるのか。
保守的だと思われた老人たちの方が、孤独に直面してるだけに、新しい共生のあり方をいち早く見いだしたと言える。

大勢がパラサイトする極限状態。その終末は突然にやってくる。
娘の海外転勤、老人たちの自立、そしてひきこもりの息子の独立宣言で、突然に幕を閉じる。
あっけない結末に、結局自力では何も解決しなかったという物足りなさが残る。
しかし、現実はそんなものかもしれない。
7.5人が、突然2人きりになる。
家族の役割を演じる裏に若き夢を抑えてきていたはずの夫婦だが、急に何も抑える必要がなくなる。が、もはや自分たちが若くないことを思い知らされるのだろう。そして、孤独さを埋めるべく、二人は結局別れることなく年を重ねていくのだろう。

よく書けている戯曲なのだが、一方で疑問に感じる部分もある。
不思議なのは、経済観念が希薄なことだ。
もし、息子の「働く意味がわからない」という問いかけは、「働き甲斐」や「労働の意味」を問いかけているものの、なぜか自分がなぜ食えているのかという疑問がない。答える父親側にも、「貨幣を得るため」「その日の生活をするため」という返事がない。これは不思議である。「誰のおかげでメシを食えていると思ってるんだ!」といおう、お定まりの台詞を吐けるような父親ではないのかもしれないが、しかしそこに触れない方がかえって不自然に感じる。
いや、この戯曲が書かれた6年前には、そのあたりはあまり切実ではなかったのか。もしかしたら職を失うかもしれないという恐怖は、この数年で急速に広がったものかもしれない。
だとするなら、2009年のパラサイト・パラダイスを作るなら、父親が失業するところから始めるべきかもしれない。

役者評。
普段見慣れている宮崎の役者が見事に鍛え上げられている。
体や演技にクセのある人たちが、それが抑えられて無駄の少ない演技になっている。
古城が東京から呼んだ元劇団一跡二跳の奥村洋二が、父親役で芝居を引っ張る。
それに対して妻役の神水流じん子(劇団25馬力)がしっかりと渡り合っている。
長女のあべゆう(劇団こふく劇場)は、キャリアウーマンらしさを感じない。
長男の中武悟(劇団一演)は、まっすぐさが良い。純粋さがほしい。
長女の彼氏の谷口ろくぞう(劇団阿坊)の明るさ。
父の父を演じる甲斐健治(劇団220)の朴訥さ。
母の母の原田千賀子の皮肉さ。
隣のおじさんの黒田吉郎(のべおか笑銀座)は欽ちゃんばりの熱演。奇妙だが元から浮いたポジションの役だからこれでいい。
回想シーンの役の中では長女の同僚・藤山を演じる中島佳江子(劇団ゼロQ)が異色。キャリアを生きてきた手強さがおもしろい。

今回の企画の成果は、舞台に現れている部分以上に、その制作過程にあったのではないかと思う。
1回だけだが稽古を見に行ったが、非常に密度の高い稽古であった。特に、最初のウォーミングアップは、音楽に乗せて小一時間体を動かし続ける。わずか1ヶ月の稽古で古城流の演出を役者陣が体に取り込むことができたのは、このアップをみっちりと仕込んだからだろう。このアップをはじめ、演出の技術や考え方など、多くのものを残したに違いない。それがなによりの果実であり、それを生かせるかどうかは宮崎の演劇人の努力にかかっている。
また、稽古場に使った高岡町の去川小学校の廃校跡も、演劇づくりには素晴らしい環境であった。稽古場さがしに実行委員が頭を悩ましていたのを知っていたが、よくぞ素晴らしい場を見つけたものである。去川地区の人たちの寛容さにも感謝である。便利な場所ではないが、芸術を創造する場として広くて時間を気にせずに使えて集中できる。これもまた、今後につなげていきたいものである。

終演後のアフタートークで、観客に対して挙手アンケートが取られた。登場人物の誰に共感するか。今回は父親と母親に対する共感が多かったのだが、東京では長男への共感もほぼ同数あるのだという。これはどういうことだろう。おそらくは、宮崎の観客の年齢が高いのだろう。宮崎では演劇が若者に文化として認知されていないということだろう。あたりまえのようなことをあらためて認識した。

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みやざき演劇祭2009 「リンコのうた」

みやざき演劇祭2009 南九州スペシャル公演 
熊本演劇人会議
「リンコのうた」

2009年9月6日
宮崎県立芸術劇場 演劇ホール 舞台上舞台

昭和48年、熊本大洋デパート火災。
熊本という土地が記憶する惨禍。
劇場の戯曲講座(講師は宮崎の永山智行氏らしい)から生まれた作品。

感動した。

火災の背後の一つの家族の物語。
自転車屋を廃業し、妻の実家に居候することになった一家4人。
高校生の娘リンコは歌の道を志す。父は仕事が定まらず、母は家族を支えて働きに出る。大学生の兄。居候する家は貸本屋で、母の母が長年経営してきた。
そんなささやかな家庭の、ちょっとした不和。
しかしその背後には、戦争で負った心の傷が30年の時間を超えて吹き出してくる。
主人公の高校生リンコの歌への情熱、家庭の悩み、恋心、などを織り交ぜて展開していく物語は、心をとらえて離さない。

リンコの父=正直が火災の被害者となり命を失うのだが、その前夜に進学をめぐって父親とリンコは激しく喧嘩し、リンコは一晩家を出てしまう。そして詫びぬままに父はなくなってしまう。

哀しいことであり、泣かせるところなのだ。
しかし、父が亡くなる理由が、火災である必然性はあまり感じない。交通事故であっても、隕石の墜落でも変わらなく思える。
おそらく、熊本の観客ではそうは感じなかっただろう。あの火災を土地の記憶として共有しているから、「あの事件の背景の物語なのだな」と、共感できる。
しかし、他所の土地での上演となると、そうはならない。
作者の実体験を元に書かれたということで、リアリティは切実にあるのだが。
父親がその日その場所(大洋デパート)に行かざるを得なかった理由が、この家族のトラブルによるものであれば、必然性が生まれる。

しかし、そこまで因果を仕立ててしまうと、後々家族が立ち直れないような傷を負ってしまいそうではある。

主人公リンコ(森岡光)の初々しさがよい。
友人の伊沢真弓(伊澤睦)とともに、自然に女子高生らしい感じがよい。
母・和子(井芹誉子)は、献身的で苦労しながら明るく家族を支える母・妻ぶりが様になっている。明るさの影の苦しさがもう少しにじみ出ると良いのだが。
父・正直(堀田清)は、不器用な九州男児ぶり。敵役じみる背後に戦争の影があるのだが、不器用さが素にも見える。
父から借金をした女・西嶋(宗真樹子)は、詫びる切実さは本物だが、炭鉱町で女手一つで風呂屋を切り盛りしてきたという生活感には乏しい。

半円形に本棚で囲う、貸本屋のセットがよい。店の奥の家庭の様子が透けて見えるところなど、うまくできている。もう少しぎっしりと本が並んだ感じがほしい。
衣装、髪型に、やや現代っぽいところがある。

熊本の演劇人の力量の高さを感じさせる舞台であった。

しかし、この宮崎公演、2回公演の2日目を見たのだが、わずか80の座席が埋まっていない。なんとももったいないことである。

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みやざき演劇祭 ディレクター公演 「カエルに願いを」

みやざき演劇祭 ディレクター公演
「カエルに願いを」

8月28日
宮崎県立芸術劇場 イベントホール

公募で選ばれた戯曲を演劇祭のフェスティバルディレクターが演出する企画。
選ばれたのは16歳の高校生の作品である。

当初三股町立文化会館の戯曲講座(講師=永山智行氏)で書かれた作品を、演劇祭上演用に改訂を加えたものである。
(先にこの原作を読んだ上で観劇したことを断っておく)

 

高校生のカップルと、大人たちの物語。
高校生カップルはさすがによく描けている。
言葉にならない感情のすれ違い。
伝えられない自分の思いや、相手の心を測れない、未熟さ、若さ。
この脚本・芝居の魅力はそこに尽きる。16歳でしか書けない台詞である。
それを、演出(黒木朋子)、潤色(谷口ろくぞう)ら大人の力で、見せられるものに仕上げてきた。
若い力を掘り起こした演劇祭の良い仕事だと思う。

舞台評。
智樹を演じる澁谷遊歩もまた、実際に高校生。理知的でおとなしい少年が柄にはまり好演。もう少し、彼女がいる(いた)ような魅力的な部分がほしい。
耀を演じる田原遥海もはまり役。一直線な感じがよい。もう少し、野生児的なところがほしい。野生的な小学生女子から、少女へと脱皮していくところを見たいのだが。
この2人はどのようにしてつきあい始めることになったのだろうか。互いの魅力が感じられないのが残念。

一方、大人の造形はまだまだである。
戯曲講座段階の原作よりはずいぶん掘り下げられているが、逆に無理な部分も出てきている。
個性的な4人の大人=結城、茉莉、ミラ、犬山たちは、学生時代以来の友人で、今でもつき合いが続いているのだが、宇宙へ飛び立とうとして亡くなった「あの人」の空白を埋められないでいる。
特に、「あの人」を止められなかった結城はその責めを負い、世間を離れて橋の下で時が止まったようなくらしをしている。あれから10年。
ミラの作ったカエルの「願ぎごと人形」は、過去へ帰るという願いを叶えるという。結城は自室にこもってなにやら作っていて、それはタイムマシーンなのか、亡くなったあの人が作ったものと同じロケットなのか。

高校生2人の別れる前の過去へ帰りたいという思いと、大人たちの10年前に失ったものを取り返したいという思いが、交錯する。この思いを割りゼリフで両者を同時並行させるのだが、趣向はよいものの、残念ながら意味の深い長文の台詞を割られると、観客はついて行けない。これは脚本なのか、演出なのか、脚本潤色の仕業なのか。いずれにしても、割りゼリフならもう少し短くリズムよく、感覚で理解できるようにして行かなければなるまい。残念ながら、ここがよく受け止められなかったので、芝居の結末の大事な部分が十分に理解できなかった。

高校生2人はどうやら仲を修復したようなのだが、その瞬間がわからない。過去へ帰ることを願うのではなく、すれ違いを重ねながら未来へ進むのだという意志を見たかったのだが、それらしいところが見えない。
もっとわからないのは大人組の方で、結城はこの小屋を出て、どうしようというのか。茉莉かミラかを選ぶのか、どちらからも逃げるのか、それともロケットに乗って「あの人」を追うのか・・・。
どちらも結末想像させているのに、それをうまく見せられなかったのが残念。

大人組の評。
ミラを演じる成合がさすがに一日の長。ちょっと漫画的なキャラクターなのだが、十分に作り込んでいる。
茉莉の前田は理知的な女性が仁にあっている。ただ、なんだかんだ言ってこのグループでいっしょに行動している情がほしい。学生時代から十数年来つきあっている友にしてはやや冷たいか。
この2人がそれぞれ結城のことをどう思っているのかが、よくわからない。
大人たちの設定はおそらく30代前半だろうが、この2人はそれにしてはものがわかりすぎているような感じがある。
一方の結城を演じる鬼束は、原作の感じからすると若すぎるかと思ったが、なかなか好演。年齢不詳なとぼけた感じがあるとよいのだが、それは無理な注文か。抱え込んだ過去の苦さが、自然ににじみ出るとよいのだが。
犬山の中武秀太は後輩らしくはあるが、生活感はない。

 

演出は、全体的にスピードはあるのだが、やや御都合主義や予定調和なところがあり、もう少し間合いがあった方がよい。

美術(満木夢奈)が印象的。草などはややチープな感じがするが、橋桁の鉄骨の空間に張り出す感覚が良い。

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東京オレンジ インプロヴィゼーショナルシアターシリーズ#7 『Live the LiFE』

東京オレンジ 
インプロヴィゼーショナルシアターシリーズ#7
『Live the LiFE』

7月17日
下北沢駅前劇場

郡山のマルイ前、マーガリン、黒猫、大脱走
観客から集めたキーワードを元に、即興で劇を作る。
落語の三題噺みたいなものだが、1人で考えて演じるのではなく、他者と合わせながら演じていくのが最大の違いであり、難しさでもあり、面白さである。
次に何が起きるかわからないスリングさ。

今回は、三つの異なる即興劇を作ったのだが、中では最初に演じた、一枚の絵画を最初に描き、その背景を各人が演じていく方法がおもしろい。冒頭に書いた4つのキーワードがその時に使われたものだが、実にバラバラなキーワードを元に、芝居が作られていく。
書く登場人物のショートストーリーが描かれるので、長い物語にはならない。だから、物語的な面白さは乏しいが、その代わり次々とイメージが紡がれていく様子がみごとであり、観客も想像力を総動員しないとついて行けなくなる。
役者も各々に相当な知識と柔軟性とを持っていないとできないことである。
 もちろん、方法論や技術論~メソッドのようなものがあり、それに基づいて訓練されているのだろう。

イメージは次々に飛び、場面も空間も飛ぶ。
しかし、いつしかまた元のキーワードに収束していく。その時、そのキーワードは最初とは異なり、より豊かなイメージがふくらんで見える。

今公演の期間中に、「シアタースポーツ」という即興劇の勝ち抜き戦のような企画がある。
スポーツのように、何が起こるかわからないスリルを、演劇に持ち込むと言うことだろう。
そこには指導者はあっても、「演出」という行為はない。
役者が中心となる演劇である。

私は、最近、「演劇をやる意味とは何だろう」とずっと考えている。
他者を演じる意味など、どこにあるのだろうと思う。
生身の自分の肉体を晒すことにしか、意味はないのではないかとも思う。
宮崎の「ぐるーぷ連」は、まさに他者になるのではなく自分自身を舞台にのせている。しかし、連は役者同士が絡むことがない。ソロなのである。

今回出会ったインプロは、役者と役者がぶつかり合うことで、役者の個性が触発される中で浮かび上がってくる。
ある意味演劇の究極形だと思う。
「インプロ」に、演劇をやる意味が見出せるような気がした、のだが・・・。

ただ、スポーツ的であると言うことは、その場の熱狂は作れるが、心には残りにくい。汗と笑いの印象は残るし、たしかに2時間強の楽しい時間を過ごしたのだが、しかし、あとにはあまり残らない。

これが演劇の唯一の方法ではない、いや、人生を賭してやる演劇などないのか、などと思ったのである。

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鳥の劇場 「剣を鍛える話」

鳥の劇場 「剣を鍛える話」

7月3日(金) 宮崎県立芸術劇場 演劇ホール舞台上舞台

切り落とされた生首が煮え湯の中で闘う奇怪な物語。
生首の闘いを、圧倒的な身体表現で見せる。

鳥取から来た鳥の劇場「剣を鍛える話」である。
(演出:中島諒人)

「物語」という枠組みが、古典を基調とした演技スタイルによく合っている。
魯迅作となっているが、古くから中国はじめアジア各地に類型の物語が伝わっていることから、もっと普遍性のある物語としてとらえられている。
糸を巻いたり、砧を打ったり、洗濯をしたりする庶民が語り伝える、という形で、物語が進行していく。
魯迅の書く地の文を語り手が語っていくのである。
語り手は、各役者が交互に演じる。
(打楽器を中心とした音楽も、役者が交互に演じている。)
そして、最後にはまた、語り伝えているという形が明解に示されて終わる。
つまり、語っている庶民たちの中に、物語がはまる、入れ子構造を取っている。
ストーリーが語られることで対象化されるのである。

ところで、このように庶民の中で語り伝える、ということが、急速に衰えて来ている時代ではある。
演劇や、あるいは小説など、芸術の形をとらなければ伝わらなくなってしまっている。もはや本当に生活感や血肉となる物語ではなくなってしまっているのだ。
地域性を持った豊かな物語の文化は、文字になどならない。
例えば、桃太郎だって、昔から地域ごとに伝わっていたものと、すでに今日本全国の子供達が平均的に知っている物語は、もはや違うものであろう。

したがって、庶民が語り伝えている、という枠組み自体がまた、あえて演出されて舞台にのせられることによって対象化されている。
我々は、数千年に亘って伝えてきたものから、わずか100年足らずの間にすっかり断絶してしまったことを知らされもする。

それはさておき、舞台のこと。
圧倒的な役者のエネルギー。
鍛え上げられた身体と語り。
「演じる」ということの真の力を見せられた気がする。
ノリや勢いであったり、力の抜けた演劇が多い中、体に宿るエネルギーを見事に集中して無駄なく発揮する、鳥の劇場の演技は、むしろ新鮮でさえある。
しかも、決して前衛的でわかりにくいということはないのである。

古典的なテキストを選んだことも成功の要因だと思うのだが、この劇団がチェーホフや三島由紀夫を演じるというのだから、いったいどういう舞台が作られるのか、ちょっと不思議である。

鳥取にこれだけの力のある劇団が存在することが驚きでもあり、またそれを見つけて宮崎公演を実現した永山ディレクターの眼力にも敬服する。

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