ぐるーぷ連 「小町草紙」
ぐるーぷ連 「小町草紙」
4月26日 ぐるーぷ連劇工房
演劇と呼ばれるものから引けるものをすべてひいてみる。最後に残ったひとりとひとり。これが演劇の本質だというわけだ。・・・なるほど。それでいい。では、もう引くものはないのか。物語(脚本)を引いてみよう。・・・今度の演劇はどんなストーリーですか? いえ、ストーリーはないのです。ほう、で、テーマは何です、メッセージは? メッセージもありません。ほう、あなたはどんな役で登場するのですか? 役も無いんです、ストーリーがありませんから。(中略)
つまり、引き算を重ね社会的存在を無くしてみると生の貴重さが見えてくるはずだ。ひとりの人間が空間に立つ。そのことが感動的ではないのか。(後略)
当日配られたパンフレットには、演出の実広の文章がこのように記されている。
なるほど、潔い演劇論である。
しかし、実際の舞台はどうだったのか。
パンフレットの文章を観劇の前提にしてしまうのは邪道かもしれない。しかし、演出家の意図として配られたものを無視もできない。
老いさらばえた小町とおぼしきダンサーが、回想するかのようにダンスを踊る。
引き算をしたという割には、余計なものが多いのではないか。
小町がどうのこうのという設定などいらないのではないか。井上が何もことさらに老人を演じなくても、素のままの井上の歳で十分にその齢の存在感があるではないか。
私は、ぐるーぷ連を見続けて十数年になる。今さら彼らに大きな変化など求めていないし、ともに歳を重ねて、老いていく姿を見るのがこの劇団の見方だと思っている。
しかし、いや、だからこそ、歳を重ねるごとに余計なものを削いでいってほしいのだ。
助演する前本、児玉の扱いも腑に落ちない。2人が十分に力を付けてきたからだが、結局彼らは実広らの書いた脚本の上でしか生きていない。彼らが自身が考えて自分自身を舞台にのせているわけではない。もっともっと引き算をして、素の彼らを舞台にのせられるはずだ。もうそれだけの力を彼らは持っているはずで、それを生かす責任が実広にはあるはずである。
いつも通りの連の舞台なのだが、どうも今回は厳しく見てしまうこととなった。
いいもの。
前本の声。
「半生すでに終わったのに、人生はいつでも尻切れとんぼだった」という台詞に実感かがこもる。
井上の宙を舞うような姿。こういう踊りだけをもっと見てみたい。
衣装がよい。特に、前本、児玉の古典風でありながらバイヤスのドレープを生かした法衣が面白い。裏地まで凝っている。
新鮮なもの。
日本語のポップスに乗せて踊る井上。岸田敏志の「君の朝」でいきなり始まるので驚いた。中島みゆきの「ひとり遊び」も印象的。
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