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2009年3月

エキスポ 再演

「エキスポ」
宮崎市民プラザ オルブライトホール
3月21日 夜

 

中島淳彦 作・演出

 

再演は難しい。
特に、初演が大成功で、作り手にも観客にもその印象がまだ強く残る中、一部キャストスタッフが入れ替わっての再演となると、 なおさらである。


日南出身の劇作家、中島淳彦作演出の「エキスポ」。
昭和45年の日南油津が舞台。ちょうど大阪万博が開かれている時。
大場家を一人で切り盛りしてきた働き者の母親を亡くした、その家族の通夜と葬式の模様を描く。

初演と同じく、宮崎の脂ののった旬の役者たちの熱演で、 笑いに満ちたレベルの高い舞台に仕上がった。
前回はゲスト出演の井之上隆志(都城出身・東京で役者として活躍)に引っ張られるような感じだったが、 今回はバランス良く溶け合った良いアンサンブルとなった。日南の劇団からの参加がないのが残念である。
そんな中で、特にSPC、220の役者陣が良い。こういうサイズの劇場(オルブライトホール)でやり慣れていることと、 笑いを積極的に取りに行くような演技が手に入っている。逆に、ややこのサイズに収まりが悪いのは25馬力陣であるが、 これは合同公演では仕方ないことかもしれない。

前回に比べると、全体的に細かい遊びによる笑いが多くなっているような気がする。 たしかに笑えるのだが、やや人物の輪郭が崩れるような気がする。その問題が何につながるかは、後に詳述する。

亡くなった母親の甥・賢作を演じる井之上は、 陽性で軽妙な演技が一頭地を抜いているのはいうまでもない。普段から宮崎弁で芝居をしているようである。
成合(SPC)の長男の嫁・君江がそれらしくて良い。芝居全体を牽引している。
あべゆう(こふく劇場)の次女・千代子が落ち着いた良いでき。前回よりもこういう生活感のある役が身につくようになってきた。
東京から来るレコード会社の社長・芳川を演じる蛯原(SPC)は、いつもながらの調子良さが生きている。欲を言えば、 都会人の嫌みと安っぽさがもう一息ほしかった。
谷口(阿坊)演じる宝田は、面白いがちょっと笑いを取りに行きすぎか。
甲斐(220)の上原は、柄は十分だが、もう少し漁師らしさがほしい。人の良さが出てしまう。
湯浅(220)の長男・康夫は、デクノボーらしく、働いている感じがしない。それがよいのか悪いのか。
次女の前夫山下を演じる中村(25馬力)は、歌がうまいところはよいが、東京へ出て行きたがる野心が出ていない。田舎の方が似合うようだ。
父親・了一を演じる山室(25馬力)は、ぼっけな爺さんぶりを期待したが、意外に硬骨。 前回この役を演じた矢野一誠氏の好演が印象に残るせいかもしれないが、逆に山室らしいとぼけた頼りない父親像を見たかった。しかし、 それでも亡き妻への愛情がにじみ出ている。
他に、緒方(220)、濱砂(こふく劇場)、檜山(SPC)、金子(220)ともに良い。
濱崎(二人の会)が酔いどれの香典泥棒婆さんを楽しんで演じている。舞台の世界に幅が出る。


さて、全体としてみると、喜劇としては面白かった。
しかしもう一つの「テーマ」が十分に伝わらず、ラストの父の叫びが心に響かない。
これは単に役者の演技力の問題ではない。
一つは演出の問題。
最期にイメージの中の亡き母の後ろ姿を出したり、スモークをむせるほど炊いたり、家族以外の役が出てきたりと、余計なものが多かった。
しかし、それは本質ではない。

「人類の進歩と調和」
万博のテーマであり、母の最期の言葉である。
この言葉は、昭和45年という、高度経済成長の絶頂期に発せられた言葉として、象徴的な意味を持つ。
近代と現代の転換点。
すっかり生活様式の変わってしまった今=2009年から振り返って、その転換が本当に進歩と調和だったのか、 それが正しかったのか問い返しているわけだ。
それを感じさせるには、かろうじて前現代が残る昭和45年の油津を克明に描かなければ、現代を照らし出すことができないのだ。

ところが、残念ながらそれが明解でない。
これでは現代の田舎のホームドラマである。
台詞の端々にはその時代を表す言葉は散りばめられているのだが、舞台全体からあの時代の空気が流れてこない。
笑いを追求するほど、感覚が現代的になっていく。古き良きゆったりとした時間の流れが感じられなくなる。
美術衣装の詰めの甘さもある。

難しいところではある。
喜劇としては面白かったのだが、テーマ的には薄味となってしまった。

 

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「主張」という話し方

先月福岡で「全国商工会青年部全国大会」というものがあって、 私も仕事の関係で最近町の商工会青年部に入ったものだから、参加してきた。

その中で「主張発表」の全国代表の発表というものがあった。
内容は、各地の青年部活動を通してこういう地域貢献をしました」という事例発表である。
若者の熱い活動が内容だから、語りの口調も熱くなりがちである。妙に爽やかにやろうとすればするほど、熱い。いや、暑苦しい。

どうしてこういう語り口になるのだろう。小学生の教科書読みを、なお大げさにした感じ。
これは商工会だけではなくて、おそらく「青年の主張」とか、その他の「主張大会」でも、同じような傾向で、「主張」 独特の語り口のパターンというものがあるのだろう。
この会のゲストには自民党国会議員がずらっと並んでいて、中には商工会青年部OBという議員もいた。つまり、 この語り方の延長には選挙演説や、政治演説があるということなのだろう。大学の弁論部系の語り方とも、類似しているのかもしれない。
この不自然さはなんとかならないのか。
会話ではないから演劇とは話し方が異なるのは当然だが、しかし、もっと自然体で伝えるテクニックがあるのではないか。


結局最優秀賞となったのは、汎用性のある事例をわりと冷静な語り口で「主張」した人だった。

 

ところで、「主張」に優劣をつけることにどういう意味があるのだろう。 各主張の前には応援合戦がある。なんでもかんでも順位を付けなければ気が済まないというのは病的ではないか。 それよりは内容を多面的に評価検討した方がよい。


 

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尼崎ロマンポルノ 「鉄鋼スベカラク」

尼崎ロマンポルノ
「鉄鋼スベカラク」
精華小劇場
3月7日

若い。
混沌を力業でまとめ上げようとしているが、どうにも浅い。
しかもちょっとエネルギーが足りない。四方囲み舞台に挑戦するその意気込みは買う。しかし、その空間を使いこなせているかどうか以前に、 エネルギーで満たせていない。
三間間口の舞台なら十分に満たせるのだろうが。このあたりが四方囲み舞台の難しさ。


双子の姉妹とその父母の家族、そして、妹の彼氏の物語。
活発で親から愛されている妹と、地味な姉。
妹を殺した(らしき)彼氏がからんで、父の語る鯉の物語と、殺人と放火の真相をめぐってストーリーは錯綜する。
物語は意外などんでん返しがあるのだが、しかし、人物設定がステレオタイプ。
笑いも空回り。普通の会話の口調がコントロールできていない。間がゆるい。


父母の宿業みたいなものを掘り下げて、生きることの難しさを描ければ、 子どもたちの行く末にも奥行きが出たのではないか。
しかし、この若さにそれを求めるのはムリかもしれない。

 

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燐光群 「屋根裏」

燐光群 「屋根裏」
3月6日 梅ヶ丘box

先に戯曲を読んでいたし、予備情報は十分だった。また、 演出的には特に新味のあるものではないのだが。それでもやはり面白い芝居であった。
梅ヶ丘boxという狭い地下室に70名ほどの観客を詰め込んで、舞台は「屋根裏」という一人用の狭い空間をめぐって物語は進んでいく。
この劇場自体が一種の屋根裏なのではないかと思ってしまう。

狭いところに閉じこもるさまざまな人間模様。
「ひきこもり」に限らず、いろいろなシチュエーションがオムニバス形式で綴られていく。「屋根裏キット」 のオリジナルの製作者を捜すというちょっとミステリーっぽい大筋はあるのだが、これはいくつかある話の一つに過ぎないだろう。

ひきこもりたい、閉じこもりたい、という心。

「自分の意志で一人でいることを選び取った一日は、流されて過ごす一年の長さに等しい」
という言葉が心にのこる。


ラスト近く、「屋根裏」の周りを覆っていた黒いパネルが取り払われ、むき出しの舞台にぽつんと 「屋根裏」が置かれたが、ここまで積み重ねられた世界が崩壊するようで、ぞっとした。

一人になれない時代、自分自身で何も決められない時代。
「本当にあるわけないよな、こんなワケのわからないもの」
と常識の感覚では思いながら、しかし、見終わってみると、もしかしたら大ヒット商品としてほどなく世に出てくるのではないかと、 思わずにいられなかった。

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「火の顔」  フェスティバル/トーキョー09春

2009年3月6日 14時
東京芸術劇場 小ホール1

演出:松井周(サンプル)
作: マリウス・フォン・マイエンブルグ

 

思春期の姉(オルガ)弟(クルト)、その父母の4人家族の崩壊を描く。
近親相姦の中となった姉弟の間に、姉の恋人が現れることで、弟は引きこもり、ついに爆弾製造、放火、親殺しへと至る。

しかし、姉の恋人の出現は別にきっかけに過ぎない。それが無くともこの家庭は崩壊したであろうと思わせる。
ではその原因は? つまり両親の親としての、あるいは人間としての「あり方」のせいだというのだろうか。
たしかに自分勝手な親と思わせるように描かれているが、しかし、別に異常でもなんでもない。大人らしい無感覚さはごく「普通」だ。
また、この家族のゆがみを客観的に測るのが外から来る恋人なのだが、しかしその尺度が「普通」なのかもよくわからない。
「普通」なのに、そこから「異常」が生まれてくるのはなぜだろう。ほんのわずか、何かがずれてしまったのだろう。

子どもたちの、純粋さを保ちたいと願うあまり引きこもってしまう鋭敏な感覚は、 わからなくもない。

しかし、すでに私はちょっと歳を取りすぎたようだ。
あのような無神経な親にはなりたくはない。しかし、すでに自分も思春期前の子供の親であり、もしかしたらすでに手遅れなのかもしれない。
親7:子3ぐらいの思い入れで見てしまった。

 

演出の松井周は青年団の出身。
姉弟役の現代風のゆるめのしゃべり方は青年団譲りかもしれない。しかし、きちんと意識的にコントロールされている。
テキスト自体が「現代口語演劇」ではなく、独白や観客を挑発するような台詞もある。

セットは、下手から上手への緩い傾斜が、二本。その間に長いテーブル。 周囲はむき出しの劇場の壁。セットの奥に空いた空間も効果的に使われる。
この抽象的な空間をうまく使い、家庭の居間、親の寝室、子どもたちの部屋を表現する。
そこを行き来することで、空間的にも時間的にも移ろっていく様子が無駄な隙なく流れていく。時間にすれば、 子どもたちの思春期の5年間ぐらいなのだろうか。
傾斜やテーブルの上を、肉体を引きずる動きが印象的。しかし後は特別な様式的な動きがあるわけはないし、 特殊な朗誦術で語られるわけではない。
抽象的な空間であり、リアリズムではまったくないが、演出はストレートで緊密に作り上げられている。

役者陣は、親子役だから歳が離れたでこぼこユニットで、両親の平凡さ、 子どもたちの未熟な感じが、それぞれにはまり役。
姉を演じた野津あおいの華奢だがコントロールできている身体がいい。
弟の菅原直樹の体当たり感。

弟(クルト)の台詞
「しがらみを断ち切って、一人になれ。他人に吹き込まれた考えは捨てて、隙間を閉ざせ。」

姉弟はともに放火をし、両親を殺害しておきながら、なんでもない日常が失われたことに気づき、 やってきた恋人に救いを求める。
取り残された弟は、一層閉じこもっていく。大きなビニール袋に自ら入り、密閉し、転がって行く。
印象的な最期である。

 

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歌舞伎座 元禄忠臣蔵 江戸城の刃傷

2009年3月7日

当初は昼の部すべてを見る予定だったのだが、ほかに見たいものができたので、空き時間で序幕の 「江戸城の刃傷」だけを一幕見で観劇。

入ってみれば3階席にもけっこう空きがある。
歌舞伎座さよなら公演という特別企画の中、新歌舞伎で通すというのはなかなか思い切った企画だと思うが、 しかしどうせ忠臣蔵ならやはり仮名手本を見たい。いずれ最後の企画にでも出すのだろうけど。
しかし、なぜ今元禄忠臣蔵なのかとは思う。
1つは数年前に国立劇場で3ヶ月かけての完全通しという偉業をした記憶が新しいということ。
そして、その時にも感じたのだが、これが現代に通じるものなのかと言うこと。

 

国立劇場の通しは2月目の伏見撞木町~御浜御殿~南部坂だけしか見なかったのだが、 御浜御殿を除いては愚劇だと思った。また、ほかの幕も別の機会にいくつかは見たが、悪くはないが、しかし実に理詰めで、 戦前の価値観だと感じた。

今さら話だが、国立劇場の完全通しをするなら、同じ時期に新国立劇場で現代演出家・ 現代劇俳優による、新演出を企画したらおもしろかっただろうと思う。同じ日本芸術文化振興会という組織の下にありながら、 こういう連携はできないものなのだろうか。
間違いなく、元禄忠臣蔵は、歌舞伎だけでなく、近代劇の一つの到達点である。古い部分も含めて現代の視点で洗い直すとどうなるのか、 刺激的な試みではないか。
もちろん、真山青果自身は歌舞伎の役者が上演することを前提に書いているのだろうから、 従来の歌舞伎調ではなくてもその朗誦術をベースに考えているはずである。しかしそれをあえて壊すとどうなるだろう。

歌舞伎の役者とは恐ろしいもので、本当に骨の髄まで歌舞伎の演技術が染み付いている。 どんな台詞でも歌舞伎調にしてしまう。もう少し普通にしゃべれないものかと思ってしまう。

 

さて、前段が長くなってしまったが、やはり今回も新歌舞伎の中途半端さも感じてしまった。
幕開きは直しの柝で始まり、終われば片砂切りが鳴るのに、上演中はまるで歌舞伎らしい音はなし。転換前後も柝は入らない。 転換中は暗転したまましばし無音で待たされる。この無駄な間をつなぐ演出をしようとは思わないのだろうか。 そこが従来の歌舞伎の感覚から抜けていない半端な部分だ。

そうは言っても、やはり歌舞伎役者の風情で見せるのが、梅玉の浅野内匠頭。
そして、意外な上出来が彌十郎の多門伝八郎。上司とやり合う間合いといい調子といい、 この人がこういう溌剌とした役をやれるとは思っていなかった。


しかし、独立した一幕として書かれたとはいっても、 長い事件の発端の部分で全体の主役大石内蔵助も出てくる以前のことだから、どうもこの一幕見では半端であった。

 

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地域通貨

先日、綾町で「地域通貨」の勉強会があった。

マクロ経済に踊らされず、地域での消費を促進し、コミュニティーを再生するツールとして、 地域通貨を導入してみないか? という話。
今回はごく入り口の話だった。

それで思い起こすのは、劇場で使う地域通貨「芸術地域通貨ARTS」のこと。
これはたしか平田オリザ氏の提唱で始まったんだと思うが、桜美林大学劇場コミッティが発行する芸術地域通貨で、 平田氏が関わるこまばアゴラ劇場や、富士見市民文化会館などで使える。

劇場の業務をボランティア的にやった人に、地域通貨ARTSで対価を支払う。
で、このARTSで演劇を見ることができる、という形。

http://www.obirin.ac.jp/ri/pai/arts/index.html

劇団側にはその7割が支払われるようだけど、しかし、その原資はどこから出てくるんだろう。
(アゴラ劇場のサイト。2006年時点)

そのあたりを不思議に思って、ググってみると、 ほとんど出てくるのはこのような文章の入った演劇公演の案内ばかり。

芸術地域通貨ARTSについて
本公演は芸術地域通貨ARTS(アーツ)がご利用いただけます。
ARTSとは、桜美林大学演劇施設内で施行されている地域通貨です
(1ARTS=1円)


そんな中で、やっと出てきたのがこれ。

http://www.nippon-artscenter.com/index.html


なんと、すでに演劇劇場通貨というレベルを離れて、NPO法人「日本アーツセンター」を母体に、 一般的な地域通貨となっているようだ。
別物なんじゃないかと思うぐらいの変わりぶりだ。

これはこれで悪くはないのだろうけど、劇場に関わることを促すツールとしては、 ちょっとはみ出してしまったような気がする。
一方では、上記の桜美林大学云々の記述もごく最近も掲載されている。
やっぱり別物なんだろうか。

 

ところで、宮崎の劇場では、同様の試みはできないものだろうか。

演劇に関わる人を増やすことを目的とした地域通貨。

いつまでもボランティアに頼っているわけにはいかないだろうし、 広がりと責任と対価ということを考えると、有効な手段だと思う。

とりあえず演劇祭だけの通貨ってのもありじゃないか。

現実的には、

 ・かえって劇団の現金収入が減らないか。
 ・今まで無償ボランティアで助け合えていたことまで金ずくにならないか
 ・流通の不均衡が起こらないような仕組みは作れるか
 ・誰が事務的な管理をするのか
 
などなど、課題は多そうだ。

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女の平和の新聞劇評

「女の平和」のブログ(http://jikunotabi.exblog.jp/) には、新聞各紙の劇評が転載されている。おもしろい試みである。
これまで、朝日新聞、読売新聞、宮崎日日新聞の劇評が掲載された。

朝日新聞
http://jikunotabi.exblog.jp/10920618/
読売新聞
http://jikunotabi.exblog.jp/10974049/
宮崎日日新聞
http://jikunotabi.exblog.jp/10981925/

朝日と読売は概ね好評価なのだが、宮日だけはかなり手厳しい評価である。
評者は段正一郎氏である。


九州各地の役者を集めるという話題の企画故、あまり悪い評価が下されないだろうという空気がある。 それを素直に「面白くなかった」と断じるのはなかなか勇気のいることだと思う。

冒頭部分を引用する。


演劇でも映画でも、他人が表現したものに感動を覚えるのは、 そこに自分の人生とクロスする何かを感じ取り、感情移入して共感したり反発したりするからだろう。
それはほとんど無意識のうちに行われることで、なぜ面白かったのか、あるいはなぜ面白くなかったのかは、 しょせん後付けの理屈にすぎない。


たしかに、観劇は個人的な体験でしかないし、純粋に客観的な劇評など、 カラオケマシーンの点数じゃあるまいし、ありえないのだ。
しかし、「後付け」と言って、分析することを放棄してしまったら、劇評ではなく、それは「感想」ではないか。
なぜ面白くなかったのか、あとから真剣に考えて、それを分析して文章にするのが劇評ではないのか。
その演劇がたしかにそこに存在し、その時代その場所でどう受け止められたかを記すのが劇評ではないのか。


最後の部分

永山は今や宮崎にとどまらず、九州を代表する演劇人の一人である。
その誠実な人柄も覚悟も才能も多くの人が認めるところである。
だからこそ、敢えて私は問いたい。
永山よ、どこへ行く。

という問いは、真摯なものとして理解できるが、しかしこれでは「劇評」ではない。

 

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