劇団東演 「空ゆく風のこいのぼり」
10月25日 紀伊國屋ホール
宮崎在住の劇作家、藤井貴里彦の書き下ろし戯曲が、日本の演劇の中心地、
紀伊國屋ホールの舞台にかかるという。
劇団東演の藤井作品は4年前の「浄瑠璃の庭」に続いて2作目。この時は、東演パラータという、劇団の小劇場での公演だった。
舞台は、現代の宮崎県野辺町。モデルは藤井の住む野尻町であろう。
旅の途中に取り残された岡野ひとえ(古田美奈子)が、上空を泳ぐ季節はずれのこいのぼりを見上げるところから始まる。
まず大道具が実にそれらしい。古びた建家の曇ったガラス。上手の鍛冶の小屋を覆う錆びた波板。
宮崎人をして納得させるリアルさである。
前半はストーリー的には展開がスロー。ひとえが都会へ戻ることを拒否し、田舎に落ち着くまで。
対話が面白い部分である。
後半、漬け物石が盗まれてからストーリーが転がり出す。はるか昔に子ども行方が知れなくなった子どもをめぐって、
未だに傷を負う家族や友人の物語が、飛ばされていったこいのぼりをめぐって展開していく。特に、敵役かと見えた進化継道の心の傷が印象深い。
「母ちゃん」と加代にすがりつく継道を見て、感涙した。泣かせる芝居である。
基本的に方言(宮崎弁・諸県弁?)で演じられるが、まあ、方言の巧拙はこの際問うても仕方ないこと。
おそらく東京の人にはそれらしく聞こえたことだろう。「てげてげでよか」と言ったあとに「そこそこでよか」(だったか)
とそれとなく説明が付くから、意味もわかるだろう。
ところが、最も感動させる加代の台詞が、「のさんかったねえ」で、説明は一切無い。これは東京人には通じなかったかもしれないが、
これこそ翻訳不可能な言葉で、ある意味ネイティブ宮崎人作者の真骨頂であり、痛快な部分である。
主人公岡野ひとえは、都会の生活に追い詰められて、田舎で迷ったのことを機に、
結局都会へ戻ることを拒否したのだが、いったい都会のなにに追い詰められ、田舎の何に救われたのか。
ひとえを迎えに来る母親と同僚らを登場させることで、仕事や人間関係や育ちなどに追い詰められたであろうとは理解できるのだが、
もう少し克明に彼女自身が変わるところを見たい。上に「主人公」と書いたものの、この描き方だと主人公としては物足りなさを感じてしまう。
むしろ、周りの孝吉夫妻や深海兄弟の方がしっかりと魅力的に描かれている。
磯村純の演出が細部まで行き届いている。ともすると寂しくなりそうな藤井戯曲のすき間を、
しっかりと埋めて、明るいものにしている。
鍛冶屋の老夫婦(笹山栄一・溝口順子)が味わいがあっていい。
ささいな夫婦げんかがいかにもそれらしい。溝口は宮崎弁もなかなか達者である。
南方の島国からやって来た国際交流員、チーサオ(小池友理香)がよいアクセントになっている。
とかく閉鎖的になってしまいそうな田舎の空間に、別の視点を持ち込む。奇妙に明るく、
しかし海に沈もうとしている故郷を救いたいと切実に願う純真さが、周りの人々の心を解きほぐす。彼女が奇跡をもたらす源泉である。
小池のエネルギー溢れる演技がよい。
ひろとしと栄一郎の見た目がちょっと紛らわしい。見た目をもう少し差がつくようにして欲しい。
栄一郎はもう少しでくのぼうな感じが欲しい。つなぎの作業着とか、
そういう雰囲気ではないだろうか。兄を心配させるような男には見えない。
ひろとし(原野寛之)の笑顔とVサインが印象に残る。これは役者の力と演出の力。
それにしてもこの芝居は客観的に見られない。
東京の芝居好きがどう見るのか。あるいは東演の顧客がどう見るのか。東京の演劇シーンの中でどういう位置づけになるのか。
少なくとも実験的な部分はまったくない。一方、
東演の顧客=おそらくガチガチの新劇ばかり見ている人たちからすれば、メッセージ性が薄くて物足りないと感じるかもしれない。
現在の東京の演劇の流行がどのようなものなのかはわからないが、
戯曲を読む限りではどうも閉塞感漂う作品が多いような気がする。対話劇と言っても、都会の若者のそれが中心であろう。
どうしてもすさんでいたり、猛スピードだったり、あるいはひたすら笑いだったり。とかく芝居は見る側に体力を要求する。
そういう中で、心をときほぐす演劇があってもいいのではないか。
東京の人たちがこの芝居を必要とするなら、じんわりホッとする時間を持てるところにあるだろう。
宣伝文句の通り、「癒しの演劇」とするのが妥当なところだろう。
(もっとも、私は「癒し」という言葉は嫌いなのだが。傷は「癒す」のではなく、「癒える」
ものだろう。)
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