「この生は受け入れがたし」FAR EASTERN PLAYERS
「この生は受け入れがたし」FAR EASTERN PLAYERS
2008年9月25日(木) 19:30
宮崎県立芸術劇場 イベントホール
宮崎出身で東京で劇団青年団に所属する畑中友仁が新たに起こしたユニット。
最初の作品は、青年団の平田オリザ作「この生は受け入れがたし」
元々この作品は、青年団と弘前劇場の合同公演のために書かれたもので、設定も弘前、
公演も弘前だったという。
その作品を宮崎に置き換えて、宮崎の役者を交えて作り上げた。
上演前からの関心事は、はたして弘前と宮崎の地域性の違いをどれだけ出せるのか、
ということであった。
弘前は北国で、陰鬱で閉鎖的なイメージである。宮崎の陽性な開放感との違いが作品に表れなければ、設定を変える価値がないのだ。
寄生虫研究室の物語。転職してきた研究者の夫とともに東京から引っ越してきた妻。 田舎になじめない孤独感。研究室のちょっと常識はずれで愉快な会話の中に、夫婦の揺らぐ感情が浮かぶ。
対話劇として全体的にはよくできている。おもしろかった。
あべゆう(こふく劇場)は、普段から方言で演じることを鍛え上げていることがよくわかる。
最も奇妙な役を難なく手に入れている。今回の企画が宮崎らしい明るさが出たのはあべの力である。
一方、山路、大久保は、方言がややぎこちない。出身地の言葉であっても、方言で芝居をするということが鍛えられていない感じである。
宮崎に置き直して無理を感じたところ。
大学の研究室周辺は、転勤者中心の比較的オープンな街ができていると思う。
引っ越してきて間もない人まで法事に付きあわせることはないだろう。また、言葉がわからないほどではないだろう。
確かに高齢の宮崎人同士でしゃべられると、東京人にはわからなくはなる。(これは私の体験である。)
青森にキタキツネのエキノコックスが何かしてくることの脅威が背景にあるということだが、
宮崎でエキノコックスにはリアリティが無く切迫感がない。むしろ、南からの渡り鳥が新種の寄生虫を運んでくるとか、
創作でもいいから切迫感の方を取るべきでは。
しかしまあ、そういう設定の矛盾は、 ちょっと書き直せばすむことだからあまり本質的なことではない。
宮崎の自然の開放感の一方で保守的な人間の感覚。
キツネの面を西島がかぶって出る不思議なシーンは、ああいう面は宮崎ではなじみがない。
原作ではキタキツネ~荒神様~キツネの面とつながる部分があって翻案しにくいところだろうが、
ムラ社会に潜む禍々しさを表せればよいのであって、なにかもう少し違う表現はなかったものか。陽性な禍々しさとは?
また、設定を宮崎の夏にしたことで陰鬱さが出にくいが、むしろ異常に暑い夏とするとか、黄砂や中国から流れてくる光化学スモッグとか、
そういうなにか田舎の凶暴さが出れば良かったのでは。
東京から見た地方の閉鎖性は描かれているが、地方から東京を見る羨望とコンプレックスの入り交じった屈折した感情は描かれていない。
これは作者・平田オリザの限界か、演出の力量不足か。
結局、宮崎ならではの「空気」を描くところまでは行かなかった。
このユニットは今後も続けてほしい。そのためには、東京の先端を運んでくるというより、 (それは畑中であれば自然とできることであろうから)まずは宮崎のありのままの姿を感じて、 宮崎を通してしか表現できないものをもっと真剣に探すことから始めなければならない。
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