劇団遊顔 「ガガガ」

宮崎県立芸術劇場
平成21年度演劇ワークショップ「演劇人養成講座 劇団をつくろう!」

劇団遊顔
「ガガガ」

2009年12月25日(金)
メディキット県民文化センター 演劇ホール舞台上舞台

演劇人養成講座の2年目の発表公演。
今回は、4年ほど前の三股の戯曲講座の受講生、渡邊眞美の作品を、永山が演出する。
まず、この渡邉の脚本が良い。
そして、それを潤色し、演劇初心者をして見られる作品に仕上げた永山の手腕も見事。
30分の舞台であるが、演劇の充実感は長さに単純に比例するものではないなと思う。

役者(受講生)は大半が演劇初心者である。
技術的に拙いのは当然だとして、しかし伝わる演技と伝わらない演技があることが、見て取れる。それは、滑舌がどうとか訛がどうとかいう、技術の問題ではない。
相手の言葉を聞き、しぐさを感じ、そして感じたことをしっかりと受け止めて返せているか。
それが出来ている人と出来ていない人の違いは一目瞭然である。
加えて、自分の身体をコントロールできているかどうか、だが、それは次の段階であろう。

終演後のアフタートークは、受講生がみな充実した顔で舞台に並んでいた。今年もまた、11人の演劇人が生まれたわけである。
地道だが、確かな成果である。

受講生
一政月海 今井恵美子 江口健太 志岐美佳 澁谷遊歩 束野静代
橋口理美 濱砂唯 本部悦孝 牧ノ瀬詠子 松原史歩

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青年団 「カガクするココロ」

青年団 「カガクするココロ」

12月2日 宮崎県立芸術劇場イベントホール

「カガクするココロ」と「北限の猿」の二本立ての青年団の公演。残念ながら今回は「カガクするココロ」だけの観劇。
作品として独立していることはわかっているのだが、しかし関連性のある作品であることを承知で見ているので、なんだか一幕目だけでお預けにされたようでちょっと悔しさが残る。

久しぶりに青年団の公演を見たのだが、最近はあまり「静か」ではないのだなと感じてしまう。十数年前に宮崎県立美術館で見た東京ノートの静謐な空気感から受けたショックから思うと、ずいぶん「普通の演劇」に感じてしまうのである。
しかし、これは平田演出の変化だけではない。観客である我々の側が、それにすっかり慣れたのだろう。
後ろ向きでしゃべるとか、同時多発でしゃべるとか、ぼそぼそしゃべるとか、そういう演技のあり方・・・つまり平田の提唱した「現代口語演劇」が、すっかり「普通のこと」、演劇のスタンダードとなったになったと言うことなのだろう。
以前は、リアルなようでしかし微妙な違和感があって、もしかしたら平田流の一つの「様式」になってしまうのではないか、と思っていたのだが。すっかり演劇の「普通」になった。

wonderlandのインタビューで、平田は

『「おれが近代演劇で、おれ以降が現代演劇だ」って。その通りになったじゃないですか。』

と語っているのだが、それがよくわかる。
http://www.wonderlands.jp/interview/010/05.html

さて、肝心の中身。
最先端の化学研究の横で交わされる若者たちのどうでもいいような日常会話、なのだが、あまりにも他愛のない会話が続き、ちょっと拍子抜けなのだ。
妊娠した高校生と、ウニの発生について語る研究者との間の緊張感は、胎内の生命と、シャーレの中の生命と、一人の男を巡る感情とが知らずにスレ違う感じが重層的でよかった。

やはり北限の猿とセットで見るべきだったのかもしれない。

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事業仕分けと地方演劇について 自問自答

先日平田オリザ氏の講演を聞いて、ああ、この人が内閣官房参与になって、いよいよ日本の芸術文化関連への施策が充実してくるのだな、と明るい希望を持ったのだが、どうも予断を許さないようである。

11月11日から始まった、政府行政刷新会議の事業仕分け。
民主党のスローガンの「コンクリートから人へ」ということで、文化芸術分野についてはあまり手をつけられないのかと思っていたら、さにあらず。
むしろ徹底的に見直されているようである。

確かに助成金関係は、必ず独立行政法人や財団法人など、いかにも天下り先のような団体が窓口となっていて、無駄な支出の温床になっていることであろう。
しかし、仕分けによって、文部科学省・文化庁関係の助成金は相当削減されることとなった。(これが予算の最終決定ではないが、ほぼこのままで予算案化されるのだろう)

    * 芸術創造・地域文化振興事業
    * 子どものための優れた舞台芸術体験事業
    * 芸術文化振興基金事業
    * 芸術家の国際交流
    * 伝統文化子ども教室事業
    * 学校への芸術家派遣
    * コミュニケーション教育拠点形成事業

芸術文化振興基金は、地方の劇団にとってなじみ深く、使いやすい助成であったし、NPO関連では私も伝統文化こども事業は活用したことがある。

今回の事業仕分けをリードする民間シンクタンク「構想日本」の資料によると、事業仕分けの考え方は、
「そもそも必要な事業なのか」→「誰がやるべきか? 民間・国・自治体?」→「中身のチェック」
という流れになるのだそうだ。

その辺の流れは、下記のサイトに詳しい。

ゴルドーニ 「財団法人新国立劇場運営財団の存廃」について考える(八)
http://goldoni.org/2009/11/post_269.html

演劇情報サイト・ステージウェブ 「新国立劇場運営財団ほか、舞台関連の国の予算が事業仕分けで大幅削減の危機」
http://www.stageweb.com/2009/11/post-121.html

今回見直しとなった芸術関連は、天下り法人の無駄な肥大とか、類似事業の整理等もある。
しかし、どうも根本の所に、
「そもそも税金を使う事業なのか?」
もっとはっきり言うと、
「そもそも文化芸術に税金を使うなよ」
という考えがあるような気がしてならない。

もし、ここで多くの助成金がカットされたら、たちまち資金に窮する劇団が出てくるであろう。
それだけ助成金の甘い汁が劇団の骨の髄まで腐らせていたのだよ、今こそ入場料収入で自立する体質に立ち戻るチャンスじゃないか、という考え方もある。
しかし、観客数の絶対的に少ない地方で、優れた舞台を作り発信し続けるには自助努力だけではまかなえない部分がある。

税金で演劇を作る、妥当性。
それを地方の演劇人たちは説得力を持って訴える論法を持っているだろうか。

なんでも国に面倒を見てもらう必要はない。地方分権と言うならなおさらだ。
しかしそれでは事業仕分けで削減された相当額を、宮崎県は来年から予算手当てしてくるのだろうか。
それだけの権限と財源を、国は地方に速やかに渡してくれるのだろうか。

地方の行政当局も来年度予算編成に当たっては相当混乱するだろう。
地域の文化は地域の行政が責任持って育てる、というヴィジョンを持って、県独自の予算を作られることを、速やかに行政に訴えて行く必要があるのではないか。
待ちの姿勢でいたら、天下り役人の道連れに斬り殺されてしまう。

(と、ここまで書いたのだが、しかし、県内の劇団で国の助成金を活用している団体って、こふく劇場ぐらいなんじゃないか。あとは、県劇が自主事業で活用しているのかな。演劇祭もか? もしかしたら、宮崎の演劇界にはあまり影響はないのかもしれない。それはそれで哀しい・・・。)

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高萩宏さんの「僕と演劇と夢の遊眠社」を読んだ

高萩宏著「僕と演劇と夢の遊眠社」
出版社: 日本経済新聞出版社 (2009/7/23)

またしても制作系であり、夢の遊眠社である。
先日読んだ北村明子さんの「だから演劇は面白い!」の前日譚のような位置になる。
遊眠社がアマチュアからプロへと成長して行く過程を制作の立場から描いたものであり、高萩氏が一劇団の制作から、演劇界の制作者へと成長していく過程を描いたドキュメントである。

北村氏の「芸能界」的話より、劇団が成長していく過程の話の方が、時代が違うとは言え共感できるものがある。
良い演劇づくりには、「才能・金・場所」が必要だと言うけれど、彼ら遊眠社の場合、一番の大元である「才能」が野田秀樹という圧倒的なものがあって、心配することがなかったというのが、他と異なる点だろう。
いわば、小劇場出世スゴロクの最初のモデルとなった劇団である。

遊眠社的な発展の仕方が、小劇場界のすべてではない。
地方と東京では事情が異なる。
絶対的な観客数の違い。あるいは観劇体験やそれを支える環境、そして生活。

しかし、今の日本の演劇の潮流の、一つの源流を、この本から見ることができる。
宮崎の演劇人にとっても学ぶことは少なくないはずだ。



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劇団どくんご 『ただちに犬』

劇団どくんご 『ただちに犬 Deluxe』

2009年11月6日 グローバルヴィレッジ綾

やや冷え込む外気を感じながら、テントの中で演劇を見る。
いや、演劇と言うより、「芝居」という言葉がふさわしいか。
肉体をさらけ出す全力投球。
汗が飛び、頭から湯気が上がる。
芝居の原点はこれなんだなあと思わせる。
綾町のおばちゃんたちが舞台の役者と掛け合ったりしている。
まさに「芝居」であり、あるいは神楽のようである。

5人の役者が、犬の死体をめぐって犯人捜しごっこをする・・・。
と、言ってしまえばそれだけで、それを一つのキーにして演劇遊びが満載なのである。
対話ではなく、個人芸のオムニバスの感じ。
それぞれに個性的で、大いに笑わせたり、スリリングだったり。
中でも、時折旬が傑出している。
安っぽいな肉襦袢で腹のふくれた体型となっているが、動きのキレやフォルムは追求され尽くしている。グロテスクさと奇妙な可愛らしさ。

4年ぶりの宮崎公演だが、前回からの間に、拠点を埼玉から鹿児島県出水の山中に移している。
「生活そのものが演劇」であり、相当な覚悟がないとできない生き方である。

心なし、前よりも毒気が少なくなったような気がする。
それは田舎でくらし始めたからなのか。それとも歳を取ったからななのか。
今、彼らが、鹿児島の山中でどういう生活をしているのかわからない。
しかし、新たな拠点に腰を据えたからにはこれからも芝居を続けていくのだろう。
テント劇というと、都会の闇の中から生まれてくるようなものに思えるのだが、さてこれから田舎を拠点として、どういう芝居を作っていくのか。そしてどのように老いていくのか。
次にまた巡ってくるのが楽しみである。

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劇場法で宮崎の演劇はどうなるのだろう

宮崎県立芸術劇場 演劇プログラム・レクチャーシリーズ
おしゃべりなディレクター♯4 平田オリザ×永山智行 演劇を語りつくす90分

宮崎県立芸術劇場イベントホール 11月4日

12月の青年団の公演のプレ企画として、平田オリザさんと永山ディレクターとの対談が行われた。

この企画が決まった時は、平田さん自身でさえ、内閣官房参与に就任することなど、思っていなかったことだろう。
話題は当然、平田イズムがどう現実の政策に反映されようとしているのか、ということになる。
今までなら、「示唆に富む話」とか、「先見性のある話」で楽しく聞いて終わるところだったのだが、今やこの人の話は現実となろうとしているのだ。
文化行政のあり方、特に、劇場のあり方をめぐる話は、まさに目の前に課題を突きつけられることになった。

劇場を規定する法律が現在は無いという。
そこでまず「劇場法」を定める。
そこでは、全国の劇場が階層化される。
・創る劇場
・観る劇場
・交流劇場

トップレベルになる「創る劇場」は当初、全国で30~50カ所、いずれ200カ所程度に、とイメージしているようだ。
「観る劇場」というのは、「創る劇場」で創られたものを、鑑賞する場。

創る劇場となるには、芸術監督、プロデューサー、教育担当プロデューサー、など、創るための専門スタッフが常駐することが求められる。そしてそこで実際に創作する俳優は、かなりの数が東京など外部からの人が入ってくることになるだろう。
そうなると、地域の人の活躍の場は? 外部からの人たちをうまく受け入れることができるのか?

現実的に、宮崎で起きそうなことを想像してみる。

まず、我らが宮崎県立芸術劇場はどの道を選ぶのか。
創る劇場となるのか。観る劇場となるのか。それとも多目的ホールとなるのか。
もちろん、最高レベルの物を作り出す、創る劇場となってほしいと願う。

しかし、県としては予算を増やしはしないだろう。国からの補助が増えるだろうか? それはわからないが、あまり期待できないのではないか。そうすると、まず最初の段階でつまずいてしまう。

もし予算が付いたとして、次はどのように使われるのかだ。平田さんの話の中でちょっと気になったのは、彼は演劇の人だから話が演劇中心に進むのだが、実際に劇場を拠点とするのは演劇だけではなく音楽もダンスもある。
宮崎の場合はすでに音楽が劇場運営の中心に座っている。仮に創る劇場となったとしても、現在のクラシック音楽のアカデミークラスや音楽祭をもって、「創る」と称して、実質的にはあまり変わらない可能性もある。

それもまたクリアして、演劇も創造しましょうとなったとき、どうするのか。外部から実績のある演出家が芸術監督として乗り込み、東京の役者を中心として芝居づくりをする。確かに刺激は受ける。そして地域の演劇も徐々に盛んになっていくだろう。
「プロのスポーツクラブだったら、全国レベルのチームを作るのに県民だけにこだわることはないだろう」という理屈は、わからなくもない。
でも、地域に暮らしていると、それは今ひとつしっくり来ない。
プロ野球だって、外国人枠がある。高校野球も県外から優秀な選手をかき集める私立校のやり方をあまり良いと思えない。
どうだろう。

そして、その結果、地域の演劇人のあり方も変わってくるだろう。
今まで地域でトップを行っていたと思っていた劇団が立場をなくすこともあるだろう。プロ化して行く人と、アマチュアでよしとする人との間で階層化が進むかもしれない。地域の演劇人はより地域と密着していく方向に活路を求めていくことになるかもしれない。教育や福祉の分野で演劇のスキルを生かし、演劇で食っていける人が増える可能性もある。
民間人の劇団は、それぞれにたくましく生きる道を模索する必要がある。

とにかく、地域演劇にとって、これから大きな変革の波が押し寄せてくることは間違いない。
数歩先を読んで、アクションを起こしていかなければ、宮崎の本当に演劇未開の地になってしまう。

これから当分、平田オリザと民主党政権の文化政策から、目が離せない。

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北村明子さんの「だから演劇は面白い!」を読んだ

演劇プロデューサー北村明子さんの「だから演劇は面白い!」を読んだ。
(小学館101新書 2009/10刊)

タイトルから想像すると、演劇の面白さを述べているのかなと思うし、プロデューサーの書いた実用書であれば制作の実務的なことが書いてあるのかとも期待したのだが、実際の内容はプロデューサーの心構え的な話で、読み物としては面白く読んだが、制作について具体的に参考になることは多くはなかった。

どうしても現在の宮崎の演劇を頭に置いて読んでしまうのだが、「東京と地方」「プロとアマチュア」など、同じ演劇というフィールドにいながら、あまりにも取り巻く状況が違い、考え方にも違いが出てくる。
「芸能界」という世界だけで生きていこうとすることに何か気持ち悪ささえ覚えてしまう。

しかし、地域の演劇と言っても、少しでもレベルの高い表現を標榜し、趣味の域を抜けようとするのであれば、マネージメント抜きに考えることはできないだろう。
マーケットが小さいことは自ら選んだことだから仕方ない。しかし、もっと入場者を増やす工夫はできるはず。内容的にも、仕掛け的にも。
「入場料収入で劇団外への支払いをまかなえるようにする」という基本を、まずできるようになること。

どうやって客を増やすのか?
DM? チラシ? 顧客管理? マスコミ対策? WEBの活用?

会社では普通にやってることだ。つまり営利を目的にした時にはまず思いつくこと。
それを劇団でやれているのかどうか、ということ。

(う~ん、批評的視点じゃなくて劇団スタッフ的な視点になってしまう)



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みやざき◎まあるい劇場 「青空」

劇団こふく劇場プロデュース公演 #16
みやざき◎まあるい劇場公演『青空』

2009年10月23日 宮崎県立芸術劇場イベントホール

  作・演出/永山智行

障碍者が大勢参加する劇団、まあるい劇場の3回目の公演。
今回は1回目と同じくこふく劇場プロデュース、永山智行の作演出である。

障碍者が舞台に立つことは、勇気のいることだろうと思う。
ただ街をゆくだけでも、好奇の目で見られたり、迷惑に思われたり、過剰に気の毒がられたり。
まあ、こういうふうに考えてしまうことが一種の偏見なのかもしれないし、なにか難しく考えすぎているのかもしれない。

 

今回一番感動したのは、実は本編の筋とはやや離れたダンスの部分である。
二人のダンサー(あべゆう・大村なつみ)が、横臥した状態から、やがて四つん這いとなり、立ち上がり、声を上げる。生命の進化を表す。
この過程を、本編のストーリーの合間に3回分けて演じる。
最初は身体を動かす技巧的にはあべゆうが勝っていると感じた。
しかし、最後、立ち上がり、声を上げるシーンとなって、大村の絞り出す声に心の底からの声を感じた。
大村は障がいを持っている。足も手も曲がっている。発語もままならない。
それだけに立ち上がることの必死さ、声を出すことの深さが、真実となるのである。
それが表現となり、感動を与える。それが演劇であり、それを見抜いた演出家(永山)の視点の確かさである。

 

ストーリーは、ある意味永山の常套的作劇法で、心に何かわだかまりを持った人々が引き寄せられように集まってくる場所での出会う。今回は廃墟となった田舎のプラネタリウムである。

リアルに考えると、なぜ彼らはここに集まっているのかとか、崩壊して彼らは無事だったのかとか、そんなことも考えないでもないのだが、それよりは一人一人の心に真実があれば、それでいい。

学生時代に漫才コンビをしていた兄弟。都会に出た兄(濱砂崇浩)は仕事にとりつかれている。弟(和田祥吾)はいつでも帰ってこいと言う。和田のとぼけた感じと生命を思う叫び。
鬼束雅人とかみもと千春の別れたカップルのしみじみとした屈折。
餅原奈々の傘子が明るさと憂いを見せてよい。よい女優となった。
久しぶりの再開を果たす夫婦(山室曹伍・松下みどり)のエピソードに心が温まる。
妖精のような3人(森、大浦、笠)が奇妙さ、管理人(平野)の皮肉っぽさ。
詩子(吉野)のじっと聞こうとする居住まい。

 

障がいの有無はストーリーとも役ともあまり関係ない。
それをことさらに特徴とはしないし、しかし個性として表現できればという、スタンスであろう。
障碍者劇団の中には障碍を表現の武器とするやり方もあるだろうが、そういうスタンスは取っていない。
しかし、ともすると障碍がないもののようになると、ちょっとそれが不自然にも感じてしまう。

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ぐるーぷ連「眠る女」

ぐるーぷ連
眠る女(ひと)

2009年10月18日
ぐるーぷ連 劇工房

ぐるーぷ連の演劇を書物にたとえると、哲学書だろうか。
小説のように感情に訴える仕掛けはしないし、実用書のような目的を持った説明ではむろんない。
哲学書は真理を探究しているのだが、読み手に読み解く能力が求められるし、心の状態で受け止め方が変わってくる。

中島みゆきの最近の歌、「ボディートーク」の中に、
「言葉なんて、迫力がない。言葉はなんて弱いんだろう」
という歌詞があるのだが、今日のぐるーぷ連の舞台を見ながら、この歌詞を思い出していた。
(中島みゆきは言葉にこだわってきた人だから、反意的に使ったのではあろうけれど。)
どうも、今回の連の舞台からは言葉が響いてこないのだ。

舞台自体はいつもとそう変わるものではないし、こちらもそれを承知で見に行っているのだから、もしかしたら響かないのはこちらの心が受け止める状態にないからかもしれない。

今回は「人は大きいの? 小さいの?」という問いかけが繰り返される。
しかし、そういう設問自体がナンセンスに思える。
大きい小さいとという概念は相対的なものである。プランクトンから見ればヒトは大きいだろうし、宇宙から見れば小さいだろう。
パンフレットの中で「いる」ではなく「ある」、つまり意志とは関係なく“存在すること”について問いかけたいと書いてあるのだが、大小という比較条件で見てみるという所ですでに意志が働いているのではないか。

たまたま先日読んだ舞台批評(せりふの時代2009秋号 岩井秀人評)に、ただ40分間人が立っているだけとか、次第に人数が増えていくとか、そういう前衛的な舞台があると言うことを読んだ。(CASTAYA project『Are You Experienced?』)

連が「ある」ことを目指すのであれば、一度言葉を捨てたらどうだろうか。

しかしながら、夏目漱石の「夢十夜」を、前本、児玉の二人で読むところはおもしろかった。物語があるとやはりわかりやすい。
また、井上も夢十夜を語り出すのだが、これが前本児玉とは別格にさらにおもしろい。ところが、井上が語るのは冒頭部分だけで、本題は夢の感覚についてであり、やがて話は(おそらく太田省吾の)演劇論に入っていく。演劇はヒトを実像以上に大きく描いているのではないか、という問いかけ。しかし、それまで人間一般の広がりを持っていたのに、急に演劇論になってしまって論点が小さくなってしまう。

言葉を弄すれば労するほど、結局何が見せたいのかわからなくなってきてしまうのである。

「10の8乗目メートルから見ると地球はビー玉ぐらい。10の9乗メートルではゴマ粒ぐらい。」
最後にいつもの通り舞台奥の扉が開いて、夜風が吹き込んでくる。その夜風で今日が闇夜で星が降るようだったことを思い出す。
空虚だった言葉が、急に活き活きと感じられるようになる。
終演後、外に出て再び夜空を見上げる。
天の川が見える。流れ星が流れる・・・。

夜空を見る心を与えた。それがこの舞台の成果なのかもしれない。

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大宮崎落語祭 ・・・ 宮崎市街を落語客が行き交った!

10月11,12日、宮崎市内で「大宮崎落語祭」が開かれた。
昨年まで東京銀座で開催された「大銀座落語祭」の地方展開第一弾である。
なぜ宮崎が選ばれたのかよくわからないものの、宮崎市民としては大歓迎である。

しかし、事前の告知はなんとも心もとないもので、ウェブサイトもなんだかわかりにくいもので、これで客が集まるのか心配であった。
市街地中心部の4会場で同時開催するという、銀座式を踏襲したおもしろいところではあるが、しかし宮崎でそんなに集客できるのだろうか、と。
しかし、それは杞憂であった。

私は11日14時宮日会館の「正蔵・米團治・花緑の会」に行ったのだが、満席であった。また、他の回、他の会場も売り切れの札が出ていて、かなりの盛況のようである。1つの会が約1時間半で、3回ほど入れ替えるのだが、終演後も居残って次の回を待つ人がいた。そのまま町を歩いて別会場へ回る人たちが少なくないようで、町をパンフレットを持った人が行き交っている。MRTmiccやアートセンターから宮日会館へと向かう人ともすれ違う。
出演の花緑が話の枕の中で「街の人が誰も落語祭をやっているのを知らない」とぼやいていたが、やや噺家の誇張が含まれているとしても、それは間違いではないだろう。確かに一番街には大看板が吊り下げられていたものの、商店街にはあまりポスターを見かけなかった。町外れの劇場でやる音楽祭にはあれだけ町中に旗が立てられるというのに。山形屋の懸垂幕とか、町が落語一色になるような仕掛けが欲しいではないか。

そうは言っても、とにかく客は集まったのである。
来年は別の町へ移るのだろう。次に宮崎に落語祭が来るのは48年後だろうか。
それではあまりにももったいない気がする。町の中のホールをこれだけ一斉に連携させてできるイベントは、落語以外はあまり考えられない。
笑いは人や町を元気にすることができる。
小朝プロデュースの落語祭は当分ないのかもしれないが、これから宮崎の『街』主導で、落語祭を作っていく番である。

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