はまはま企画 「かみさん~その日、地球は○×△でした」

演劇集団 はまはま企画 
「かみさん~その日、地球は○×△でした」

5月8日 都城市ウェルネス交流プラザ

こふく劇場の濱砂崇浩が、若い役者たちを集めたユニット「はまはま企画」。
自身の名前を冠するだけあって、良くも悪くも濱砂らしい。しかし、全員が濱砂化するのも辛い。
過剰だがどこかゆるい、さっぱりとしかしグロテスク、という感じだろうか。

笑った。だが、満足感がない。

第一に、笑いの質。これは好みが分かれるところであるが・・・。
ベタな笑い。
今時テレビのお笑いでも(だから?)こんなにベタな笑いはないだろう。
携帯小説を書くお父さんのストーリーはひねりがあるが、最後の親子が入れ替わるというあたりから、さらにひとひねりもふたひねりもできそうだが、わかりやすいところで終わってしまう。

淡い恋の情景など、笑いだけではないシーンもあるので、ただのコントをねらっているわけではないのだろうが、しかし私には演劇ではなくよりコントに近いものに感じたし、それにしてはスピード感もパワーも乏しいように感じた。

演技面でも、物足りなさを感じる。
良いものもある。鬼束雄人と中島純太の異常な爽やかさとか、濱砂のグロテスクさ、など。
しかし、十分につっこみ切れていない。大仰に演じるのならもっと徹底すべき。
これは演出なのか、稽古不足だからなのか。
まだ伸びしろのある若い役者たちなのだから、まだできるはずという期待もあるのだが。

厳しくいえば、作り途中のものを見せられた感じ。
都城市ウェルネス交流プラザの「金曜劇場」という企画の枠で作られた舞台であり、この企画が気軽に演劇を楽しんでもらおうという意図があるのなら、こういうものでも良いのかもしれない。ただ、普通の演劇として見るには物足りない。

濱砂は、この企画を通して何を狙い、これからどう展開しようというのだろう。

良いもの。

映像と生身の組み合わせが効果的でおもしろい。
基本的に映像を使う手法は身体性を否定してしまうので賛成ではないのだが、今回は神の視点を映像を使うことで効果的に出すことができた。

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原体験はアンパンマンショー

ゴールデンウィーク、仕事で青島の子供の国で販売に出ていた。
すぐ近くにはステージがあるのだが、昨日(4日)にはアンパンマンショーがあった。
妙にステージ慣れしたアンパンマンの着ぐるみが、力の抜けたダンスを踊っていた。

演劇に対する悪しき固定観念はどこから来るのだろうという疑問に対し、私は教条的な学校演劇が原因ではないかとも思っていたのだが、どうやら、演劇の原体験はもっと幼少期にあるらしい。

つまりこういうアンパンマンショーやダンスショーが、善し悪し別として、とにかく生で見るステージの原体験になるのだろう。
大仰な身振り、話し方で、まったくアニメや幼児向け番組の延長線上である。

「演劇は大げさでクサいもの」という固定観念が、ここですでに作られて、小学生にもなるとそのクサさに辟易してしまうのではないのか。

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県劇 今年度のラインナップ

宮崎県立芸術劇場の今年度の自主事業のラインナップが発表されている。
ますます予算が削減される中、永山ディレクターが選んできた(と思われる)演劇・ダンス関係の舞台は以下の通りである。

7月3,4日  鳥の劇場  「剣を鍛える話」
12月12日(土) 踊りに行くぜ!!Vol.10
12月2日(水) 青年団 「カガクするココロ」
12月3日(木) 青年団 「北限の猿」
1月30日(土) じゅんじゅんSCIENCE「アリス」
2月12-14日 「演劇・時空の旅」シリーズ#2「シラノ・ド・ベルジュラック」


演劇系に限ると、鳥の劇場と青年団だけで、去年は東京以外の劇団だけだったが、今年は東京の青年団が入っている。
しかし、いずれも非常に楽しみである。
特に、鳥の劇場を選んできたのはさすがに慧眼である。

これに加えて、秋にはもちろん演劇祭がある。
残念なのは、みやざきの舞台芸術シリーズに、演劇が一つも入っていないことである。手を挙げたものがいなかったのだろうか。

しかし、もう1本ぐらい、呼んでこられる予算がほしいものである。

http://www.miyazaki-ac.jp/moyooshi/schedule/index.htm

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みまた座 あいあむふぉーてぃーん

みまた座 あいあむふぉーてぃーん

3月29日 三股町立文化会館


こふく劇場指導による、三股町の小中学生の劇団。
今年で5年目になると言うが、私は初見である。
神社の境内に行き交う中学生たちの物語。

等身大の演技に好感。
女の子が多いため、男子をも女子が演じる。健闘しているが、やはり女子中学生の演技が自然でいい。
ここまで身近な感覚で演じるなら、方言でやった方が良かったのではないかとも思うのだが、それはそれで難しさがあるのだろう。

5年の積み重ねの過程を、初見の私には知ることはできないが、子どもたちが本当に演劇が好きで楽しんでいる様子がよくわかる。
ここまで続けてきたこふく劇場の息の長い活動の成果である。
確実に演劇文化が、三股には根付いてきている。

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ぐるーぷ連 「小町草紙」

ぐるーぷ連 「小町草紙」

4月26日 ぐるーぷ連劇工房

演劇と呼ばれるものから引けるものをすべてひいてみる。最後に残ったひとりとひとり。これが演劇の本質だというわけだ。・・・なるほど。それでいい。では、もう引くものはないのか。物語(脚本)を引いてみよう。・・・今度の演劇はどんなストーリーですか? いえ、ストーリーはないのです。ほう、で、テーマは何です、メッセージは? メッセージもありません。ほう、あなたはどんな役で登場するのですか? 役も無いんです、ストーリーがありませんから。(中略)
つまり、引き算を重ね社会的存在を無くしてみると生の貴重さが見えてくるはずだ。ひとりの人間が空間に立つ。そのことが感動的ではないのか。(後略)

 

当日配られたパンフレットには、演出の実広の文章がこのように記されている。
なるほど、潔い演劇論である。
しかし、実際の舞台はどうだったのか。
パンフレットの文章を観劇の前提にしてしまうのは邪道かもしれない。しかし、演出家の意図として配られたものを無視もできない。

老いさらばえた小町とおぼしきダンサーが、回想するかのようにダンスを踊る。
引き算をしたという割には、余計なものが多いのではないか。
小町がどうのこうのという設定などいらないのではないか。井上が何もことさらに老人を演じなくても、素のままの井上の歳で十分にその齢の存在感があるではないか。

私は、ぐるーぷ連を見続けて十数年になる。今さら彼らに大きな変化など求めていないし、ともに歳を重ねて、老いていく姿を見るのがこの劇団の見方だと思っている。
しかし、いや、だからこそ、歳を重ねるごとに余計なものを削いでいってほしいのだ。

助演する前本、児玉の扱いも腑に落ちない。2人が十分に力を付けてきたからだが、結局彼らは実広らの書いた脚本の上でしか生きていない。彼らが自身が考えて自分自身を舞台にのせているわけではない。もっともっと引き算をして、素の彼らを舞台にのせられるはずだ。もうそれだけの力を彼らは持っているはずで、それを生かす責任が実広にはあるはずである。

いつも通りの連の舞台なのだが、どうも今回は厳しく見てしまうこととなった。

いいもの。
前本の声。
「半生すでに終わったのに、人生はいつでも尻切れとんぼだった」という台詞に実感かがこもる。
井上の宙を舞うような姿。こういう踊りだけをもっと見てみたい。
衣装がよい。特に、前本、児玉の古典風でありながらバイヤスのドレープを生かした法衣が面白い。裏地まで凝っている。

新鮮なもの。
日本語のポップスに乗せて踊る井上。岸田敏志の「君の朝」でいきなり始まるので驚いた。中島みゆきの「ひとり遊び」も印象的。


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エキスポ 再演

「エキスポ」
宮崎市民プラザ オルブライトホール
3月21日 夜

 

中島淳彦 作・演出

 

再演は難しい。
特に、初演が大成功で、作り手にも観客にもその印象がまだ強く残る中、一部キャストスタッフが入れ替わっての再演となると、 なおさらである。


日南出身の劇作家、中島淳彦作演出の「エキスポ」。
昭和45年の日南油津が舞台。ちょうど大阪万博が開かれている時。
大場家を一人で切り盛りしてきた働き者の母親を亡くした、その家族の通夜と葬式の模様を描く。

初演と同じく、宮崎の脂ののった旬の役者たちの熱演で、 笑いに満ちたレベルの高い舞台に仕上がった。
前回はゲスト出演の井之上隆志(都城出身・東京で役者として活躍)に引っ張られるような感じだったが、 今回はバランス良く溶け合った良いアンサンブルとなった。日南の劇団からの参加がないのが残念である。
そんな中で、特にSPC、220の役者陣が良い。こういうサイズの劇場(オルブライトホール)でやり慣れていることと、 笑いを積極的に取りに行くような演技が手に入っている。逆に、ややこのサイズに収まりが悪いのは25馬力陣であるが、 これは合同公演では仕方ないことかもしれない。

前回に比べると、全体的に細かい遊びによる笑いが多くなっているような気がする。 たしかに笑えるのだが、やや人物の輪郭が崩れるような気がする。その問題が何につながるかは、後に詳述する。

亡くなった母親の甥・賢作を演じる井之上は、 陽性で軽妙な演技が一頭地を抜いているのはいうまでもない。普段から宮崎弁で芝居をしているようである。
成合(SPC)の長男の嫁・君江がそれらしくて良い。芝居全体を牽引している。
あべゆう(こふく劇場)の次女・千代子が落ち着いた良いでき。前回よりもこういう生活感のある役が身につくようになってきた。
東京から来るレコード会社の社長・芳川を演じる蛯原(SPC)は、いつもながらの調子良さが生きている。欲を言えば、 都会人の嫌みと安っぽさがもう一息ほしかった。
谷口(阿坊)演じる宝田は、面白いがちょっと笑いを取りに行きすぎか。
甲斐(220)の上原は、柄は十分だが、もう少し漁師らしさがほしい。人の良さが出てしまう。
湯浅(220)の長男・康夫は、デクノボーらしく、働いている感じがしない。それがよいのか悪いのか。
次女の前夫山下を演じる中村(25馬力)は、歌がうまいところはよいが、東京へ出て行きたがる野心が出ていない。田舎の方が似合うようだ。
父親・了一を演じる山室(25馬力)は、ぼっけな爺さんぶりを期待したが、意外に硬骨。 前回この役を演じた矢野一誠氏の好演が印象に残るせいかもしれないが、逆に山室らしいとぼけた頼りない父親像を見たかった。しかし、 それでも亡き妻への愛情がにじみ出ている。
他に、緒方(220)、濱砂(こふく劇場)、檜山(SPC)、金子(220)ともに良い。
濱崎(二人の会)が酔いどれの香典泥棒婆さんを楽しんで演じている。舞台の世界に幅が出る。


さて、全体としてみると、喜劇としては面白かった。
しかしもう一つの「テーマ」が十分に伝わらず、ラストの父の叫びが心に響かない。
これは単に役者の演技力の問題ではない。
一つは演出の問題。
最期にイメージの中の亡き母の後ろ姿を出したり、スモークをむせるほど炊いたり、家族以外の役が出てきたりと、余計なものが多かった。
しかし、それは本質ではない。

「人類の進歩と調和」
万博のテーマであり、母の最期の言葉である。
この言葉は、昭和45年という、高度経済成長の絶頂期に発せられた言葉として、象徴的な意味を持つ。
近代と現代の転換点。
すっかり生活様式の変わってしまった今=2009年から振り返って、その転換が本当に進歩と調和だったのか、 それが正しかったのか問い返しているわけだ。
それを感じさせるには、かろうじて前現代が残る昭和45年の油津を克明に描かなければ、現代を照らし出すことができないのだ。

ところが、残念ながらそれが明解でない。
これでは現代の田舎のホームドラマである。
台詞の端々にはその時代を表す言葉は散りばめられているのだが、舞台全体からあの時代の空気が流れてこない。
笑いを追求するほど、感覚が現代的になっていく。古き良きゆったりとした時間の流れが感じられなくなる。
美術衣装の詰めの甘さもある。

難しいところではある。
喜劇としては面白かったのだが、テーマ的には薄味となってしまった。

 

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「主張」という話し方

先月福岡で「全国商工会青年部全国大会」というものがあって、 私も仕事の関係で最近町の商工会青年部に入ったものだから、参加してきた。

その中で「主張発表」の全国代表の発表というものがあった。
内容は、各地の青年部活動を通してこういう地域貢献をしました」という事例発表である。
若者の熱い活動が内容だから、語りの口調も熱くなりがちである。妙に爽やかにやろうとすればするほど、熱い。いや、暑苦しい。

どうしてこういう語り口になるのだろう。小学生の教科書読みを、なお大げさにした感じ。
これは商工会だけではなくて、おそらく「青年の主張」とか、その他の「主張大会」でも、同じような傾向で、「主張」 独特の語り口のパターンというものがあるのだろう。
この会のゲストには自民党国会議員がずらっと並んでいて、中には商工会青年部OBという議員もいた。つまり、 この語り方の延長には選挙演説や、政治演説があるということなのだろう。大学の弁論部系の語り方とも、類似しているのかもしれない。
この不自然さはなんとかならないのか。
会話ではないから演劇とは話し方が異なるのは当然だが、しかし、もっと自然体で伝えるテクニックがあるのではないか。


結局最優秀賞となったのは、汎用性のある事例をわりと冷静な語り口で「主張」した人だった。

 

ところで、「主張」に優劣をつけることにどういう意味があるのだろう。 各主張の前には応援合戦がある。なんでもかんでも順位を付けなければ気が済まないというのは病的ではないか。 それよりは内容を多面的に評価検討した方がよい。


 

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尼崎ロマンポルノ 「鉄鋼スベカラク」

尼崎ロマンポルノ
「鉄鋼スベカラク」
精華小劇場
3月7日

若い。
混沌を力業でまとめ上げようとしているが、どうにも浅い。
しかもちょっとエネルギーが足りない。四方囲み舞台に挑戦するその意気込みは買う。しかし、その空間を使いこなせているかどうか以前に、 エネルギーで満たせていない。
三間間口の舞台なら十分に満たせるのだろうが。このあたりが四方囲み舞台の難しさ。


双子の姉妹とその父母の家族、そして、妹の彼氏の物語。
活発で親から愛されている妹と、地味な姉。
妹を殺した(らしき)彼氏がからんで、父の語る鯉の物語と、殺人と放火の真相をめぐってストーリーは錯綜する。
物語は意外などんでん返しがあるのだが、しかし、人物設定がステレオタイプ。
笑いも空回り。普通の会話の口調がコントロールできていない。間がゆるい。


父母の宿業みたいなものを掘り下げて、生きることの難しさを描ければ、 子どもたちの行く末にも奥行きが出たのではないか。
しかし、この若さにそれを求めるのはムリかもしれない。

 

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燐光群 「屋根裏」

燐光群 「屋根裏」
3月6日 梅ヶ丘box

先に戯曲を読んでいたし、予備情報は十分だった。また、 演出的には特に新味のあるものではないのだが。それでもやはり面白い芝居であった。
梅ヶ丘boxという狭い地下室に70名ほどの観客を詰め込んで、舞台は「屋根裏」という一人用の狭い空間をめぐって物語は進んでいく。
この劇場自体が一種の屋根裏なのではないかと思ってしまう。

狭いところに閉じこもるさまざまな人間模様。
「ひきこもり」に限らず、いろいろなシチュエーションがオムニバス形式で綴られていく。「屋根裏キット」 のオリジナルの製作者を捜すというちょっとミステリーっぽい大筋はあるのだが、これはいくつかある話の一つに過ぎないだろう。

ひきこもりたい、閉じこもりたい、という心。

「自分の意志で一人でいることを選び取った一日は、流されて過ごす一年の長さに等しい」
という言葉が心にのこる。


ラスト近く、「屋根裏」の周りを覆っていた黒いパネルが取り払われ、むき出しの舞台にぽつんと 「屋根裏」が置かれたが、ここまで積み重ねられた世界が崩壊するようで、ぞっとした。

一人になれない時代、自分自身で何も決められない時代。
「本当にあるわけないよな、こんなワケのわからないもの」
と常識の感覚では思いながら、しかし、見終わってみると、もしかしたら大ヒット商品としてほどなく世に出てくるのではないかと、 思わずにいられなかった。

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「火の顔」  フェスティバル/トーキョー09春

2009年3月6日 14時
東京芸術劇場 小ホール1

演出:松井周(サンプル)
作: マリウス・フォン・マイエンブルグ

 

思春期の姉(オルガ)弟(クルト)、その父母の4人家族の崩壊を描く。
近親相姦の中となった姉弟の間に、姉の恋人が現れることで、弟は引きこもり、ついに爆弾製造、放火、親殺しへと至る。

しかし、姉の恋人の出現は別にきっかけに過ぎない。それが無くともこの家庭は崩壊したであろうと思わせる。
ではその原因は? つまり両親の親としての、あるいは人間としての「あり方」のせいだというのだろうか。
たしかに自分勝手な親と思わせるように描かれているが、しかし、別に異常でもなんでもない。大人らしい無感覚さはごく「普通」だ。
また、この家族のゆがみを客観的に測るのが外から来る恋人なのだが、しかしその尺度が「普通」なのかもよくわからない。
「普通」なのに、そこから「異常」が生まれてくるのはなぜだろう。ほんのわずか、何かがずれてしまったのだろう。

子どもたちの、純粋さを保ちたいと願うあまり引きこもってしまう鋭敏な感覚は、 わからなくもない。

しかし、すでに私はちょっと歳を取りすぎたようだ。
あのような無神経な親にはなりたくはない。しかし、すでに自分も思春期前の子供の親であり、もしかしたらすでに手遅れなのかもしれない。
親7:子3ぐらいの思い入れで見てしまった。

 

演出の松井周は青年団の出身。
姉弟役の現代風のゆるめのしゃべり方は青年団譲りかもしれない。しかし、きちんと意識的にコントロールされている。
テキスト自体が「現代口語演劇」ではなく、独白や観客を挑発するような台詞もある。

セットは、下手から上手への緩い傾斜が、二本。その間に長いテーブル。 周囲はむき出しの劇場の壁。セットの奥に空いた空間も効果的に使われる。
この抽象的な空間をうまく使い、家庭の居間、親の寝室、子どもたちの部屋を表現する。
そこを行き来することで、空間的にも時間的にも移ろっていく様子が無駄な隙なく流れていく。時間にすれば、 子どもたちの思春期の5年間ぐらいなのだろうか。
傾斜やテーブルの上を、肉体を引きずる動きが印象的。しかし後は特別な様式的な動きがあるわけはないし、 特殊な朗誦術で語られるわけではない。
抽象的な空間であり、リアリズムではまったくないが、演出はストレートで緊密に作り上げられている。

役者陣は、親子役だから歳が離れたでこぼこユニットで、両親の平凡さ、 子どもたちの未熟な感じが、それぞれにはまり役。
姉を演じた野津あおいの華奢だがコントロールできている身体がいい。
弟の菅原直樹の体当たり感。

弟(クルト)の台詞
「しがらみを断ち切って、一人になれ。他人に吹き込まれた考えは捨てて、隙間を閉ざせ。」

姉弟はともに放火をし、両親を殺害しておきながら、なんでもない日常が失われたことに気づき、 やってきた恋人に救いを求める。
取り残された弟は、一層閉じこもっていく。大きなビニール袋に自ら入り、密閉し、転がって行く。
印象的な最期である。

 

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